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海石榴市(つばいち)は飛鳥時代に大和国にあった市場[注釈 1]。水陸交通の要衝で駅家があり歌垣が催されたとされる。また平安時代以降は宿場町として栄えた。現在の奈良県桜井市金屋付近とされるが異説もある(後述)。表記については海石榴市[1]と海柘榴市[2]の両方が用いられるが、本記事では資料等からの引用を除き海石榴市で統一する。
概要
[編集]『万葉集』の歌に「八十の衡(やそのちまた)」と読まれるように、交通の要衝であった。大阪湾から初瀬川を上る水運の他、奈良盆地を南北に繋ぐ山辺の道、同じく東西に繋ぐ横大路、伊勢国に向かう初瀬街道、飛鳥京に至る安倍山田道など、古代の主要な道路が集まる場所であった。 『日本書紀』の推古天皇16年(608年)に隋からの使者裴世清を出迎えた場所として知られる。 敏達天皇14年(585年)に廃仏派の物部守屋が善信尼ら3人の尼の法衣を奪い捕らえて鞭打ちした場所として「海石榴市の亭」が現れる。亭は「うまやたち」と読み、駅家を意味すると考えられる[3]。同じ話が『元興寺縁起』にもあるが、こちらでは「都波岐市の長屋」と記され、なんらかの官庁であったと考えられる。
名称について
[編集]名称は市場に椿が植えられていた事に因んでいると考えられ、元は「つばきいち」と読んだものが「つばいち」に転訛したとされる[4]。椿を海石榴と表記することについて契沖は中国の詩人柳宗元が海石榴が日本から来た木であることを示唆していることから「石榴と椿の花が似ていたことから、「海を渡ってきた石榴」という意味で」としている。 平安時代には椿市とも書かれたようで。 『日本書紀』『万葉集』には海石榴市と記され、『枕草子』『蜻蛉日記』には「つば市」『小右記』には「椿市」『雨月物語』には「石榴市」
所在地についての議論
[編集]渡里恒信は 海石榴市を金屋、もしくは慈恩寺付近とする説は平安時代中期の史料を根拠としている[5]。 推古天皇16年(608年)に裴世清は水路から海石榴市で上陸して安倍山田道を経て小墾田宮に入ったとされるが、金屋や慈恩寺は安倍山田道からみるとやや東に行きすぎている。ゆえに初瀬川と上ツ道(安倍山田道)の交差点とする説や横大路と上ツ道(安倍山田道)と寺川が交差する地点が海石榴市とする説がある[6]。 『日本紀略』に延長4年(926年)に椿市が土石流によって流された記録が残っており、これを期に金屋に場所を移したという説がある[7]。なお、1975年に金屋南西、初瀬川右岸にて発掘調査が行われたが、古代の遺構は発見されなかった[8]。
歌垣の場
[編集]歌垣とは歌を詠みあう集会で、若い男女が出会いを求める場所であった。武烈天皇が皇太子の時に物部麁鹿火の娘をめぐって平群鮪と歌合した場所として現れる[注釈 2][9]。
『万葉集』巻12には以下の3首があるが、いずれも恋愛を題材にしている。
海石榴市の八十の衡に立ちならし結びし紐を解かまく惜しも(2951)
紫は灰指すものぞ海石榴市の八十の衡に逢へる児や誰(3101)
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど路行く人を誰と知りてか(3102)
- この2首は応答歌とされる。男性が女性に名前を尋ねることは求婚を意味し、女性が名を教えることは求婚の承諾を意味していた。
宿場町として
[編集]平安時代から明治時代の始まり頃まで長谷寺詣と伊勢詣の宿場町として栄えた。 『枕草子』第十一段には「つば市は大和の数ある市のなかでも、長谷寺に詣でる人が必ず泊る場所で、観音菩薩に縁のある特別な場所」と記されている[7]。 『蜻蛉日記』安和元[968]年九月 『源氏物語』には玉鬘が右近と再会をする場所として椿市が登場し、 『小右記』正暦元年九月八日条
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 奈良県HP2021年2月11日確認
- ^ 桜井市HP2021年2月11日確認
- ^ 白石太一郎 1996, p. 144-145.
- ^ 白石太一郎 1996, p. 149.
- ^ 渡里恒信 2008, p. 172.
- ^ 渡里恒信 2008, p. 171.
- ^ a b 白石太一郎 1996, p. 145.
- ^ 白石太一郎 1996, p. 146.
- ^ a b 白石太一郎 1996, p. 150.