コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者‐会話:Wiki708

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

過去ログというものを作りました。

ノートに記入の際には、署名(--~~~~)を忘れずに。--2007年2月25日 (日) 11:26 (UTC)

「○○県庁(舎)」の記事名に関する議論について(お知らせ)

[編集]

お世話になります。ノート:山梨県庁において、「山梨県庁」とするか「山梨県庁舎」とするかの議論を持ち出されており、議論の過程で山梨県庁(舎)に限らない話に拡散されていたようですが、この際ですので改めてウィキプロジェクト 日本の行政機関のノートに議論の場を設けました。よろしかったらご意見をよろしくお願いします。--Bsx 2007年10月7日 (日) 22:51 (UTC)[返信]

上記の件、了解しました。 --Wiki708 2007年10月8日 (月) 04:06 (UTC)[返信]

お世話になります。Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源の解釈についてですが、私が“執筆者自身が”と考えたのは以下の部分の記述に基づくものです。

"ウェブサイトを作ったり本を自費出版したりした上で、自分がある分野の専門家だと主張することは誰にでもできます。そのため、自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません。ブログや電子掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。"

すなわち、「執筆者自身が」専門家であるとの主張に基づき、(自身以外の意見による)検証可能性を欠く意見を紹介することを防ぐ、という意味で解釈したものです。

もう一つの解釈としては、「その分野に関する“極論”を意見として認めるか」という点になろうかと思いますが、その点で個人のブログなどの意見は「自主公表された情報源」という意味で除去されるべきだろうと思います(ただし、この場合でも客観的な情報についてはたとえ個人ブログに基づく情報でも安易に除去されるべきではないのではないかとも解していますが)。

なお、今回のノート:山村進の節に関していえば、その次の節のWikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトに照らせば、「情報源自身に関する記事」と解せば十分検証可能性があると考えている次第です。よろしくお願いします。--Bsx 2009年10月13日 (火) 14:04 (UTC)[返信]


ご返答ありがとうございました。とすると、“執筆者自身が”というのはどこかに明示されているとか、広くコンセンサスを得た意見というわけではなく、Bsxさん自身がWikipedia:検証可能性#自主公表された情報源の「ウェブサイトを作ったり本を自費出版したりした上で、云々」という文脈から読み取った『解釈』であるということでしょうか。
しかし、あえて“執筆者自身が”という限定を付け加える必要があるのか、なお分かりません。「自主公表された情報源」の定義は、Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源において、
"自己公表された情報源とは、いかなる形式の独立した事実の確認を受けてはいないか、著者と公表作業との間に誰も立ち会っていないような公表物を指します。この中には、個人のウェブサイトや自費出版業者からの出版された本が含まれます。誰でも、ウェブサイトを作ったり本が出版されるように金を支払い、そしてある分野の専門家であると主張できます。こうした理由から、自己公表された本や個人のウェブサイト、ブログの大部分は情報源として受け入れられません。"
と記されています。Wikipedia:信頼できる情報源は現状は『草案』であり、完成されたものではないのですが、おおむねこの解釈で方向性に誤りがないものと思われます。そして「自"己"公表~」も「自"主"公表~」も英語版ウィキペディアのen:Self-published sourcesの和訳でしょうから、同じものでしょう。)それを踏まえると、「自主(己)公表された情報源」とは「自費出版本」や「個人のウェブサイト、ブログ」の一般的呼称という意味にとどまり、それは「査読制度のある雑誌や新聞」と対義にあるものであり、事実確認・情報精査を十分に経ることなく公表されることが多いブログや自費出版を情報源に使うこと自体が問題視されているということではないでしょうか。そこで、「自主(己)公表された情報源」に“執筆者本人が”とあえて限定させて解釈する必然性はない ではないように思われます。(Bsxさんの解釈は、検証可能性というより中立的な観点の問題ですよね。)
さきのBsxさんの主張の後半部分は、申し訳ないことに、私の読解力の問題かもしれませんが、前段に比してさらに理解できていない状況ですので、現状はご返答することができません。--Wiki708 2009年10月13日 (火) 15:53 (UTC)Wiki708 2009年10月14日 (水) 13:41 (UTC)、タイプミスに打ち消し線追加)[返信]

説明が稚拙で申し訳ありません。「自主(己)公表された情報源」に“執筆者本人が”という解釈を加えたのは、第三者が「自主(己)公表された情報源」を用いる場合、出典を明示した時点でその出典を用いるべきかどうかにより「著者と公表作業との間に誰も立ち会っていないような公表物」に対する査読を行っている、と解したからです。「査読制度のある雑誌や新聞」であっても、(客観的事実の報道を除けば)査読により推敲された内容は雑誌や新聞の内部により行われたものであってその雑誌や新聞の主張が含まれるものであり、その意味ではこれらを出典とする場合でもその雑誌や新聞の意見であることを添えるべきだろうと考えています。

で、その上で一つおたずねしたいのですが、Wiki708さんは「公式サイト」あるいは「(記事の対象となる個人・団体が)自分で開設したサイト」のWikipediaにおける位置づけについてどのようなものとお考えでしょうか。「自己公表された情報源」の考え方に基づいて極力除去すべき存在とお考えなのか、ご意見をお聞かせいただければと思います。--Bsx 2009年10月13日 (火) 22:40 (UTC)[返信]

Bsxさんの主張は、「『自主(己)公表された情報源』の使用を、“執筆者本人”による使用を除いて、許容するべき。なぜなら、情報源の信頼性は、第三者の使用という検証作業を経てある程度は担保されているからである。しかし、情報源に信頼性については、さらなる議論と検証が必要だ。」というものでよろしいですか。
私は、「『自主(己)公表された情報源』の使用自体を、慎重に取り扱うべき。ただし、専門家やジャーナリストが自主公表した場合や、『自主(己)公表された情報源』が出版社などから公刊・発表される場合、『自主(己)公表された情報源』の内容が『信頼できる情報源』(雑誌・新聞)の内容と矛盾がない場合などには使用できる。よって、これらの場合を除いて、『自主(己)公表された情報源』は原則的に排除されるべきである。」と考えます。論拠は、上に述べた通りです。
さて、Bsxさんの解釈は、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」
"この事実関係を確認するという過程は、ウィキペディアでは提供できません。それゆえに、独自研究は載せないという方針と検証可能なことのみ載せるという方針が大変重要となるのです。(注:要するに、査読に相当する機能はウィキペディアの外部に求めよということ)
もしもその新聞があなたの話を載せてくれたならば、ようやくその情報をウィキペディアの記事に書き込んで、その新聞を情報源として示すことができます。
分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。"
に照らしみて成立しない(というよりも公式方針に反している)ように思えるのですが、どうでしょうか。 --Wiki708 2009年10月14日 (水) 13:41 (UTC)[返信]

ありがとうございます。だいたい私が推察していたようにお考えのことと解しました。

昨今、(特に現存する人物の記事については)当人のファンとおぼしき人物らからの、情報源が定かでない(検証可能性が不明瞭な)書き込みが横行しているのは事実ではありますが、Wiki708さんのお考えに則れば、現在執筆されている「現存する人物」の記事内容の大半は除去対象になりうるというお考えに帰結しそうに感じています。恐らくは公式方針を「厳格に適用」しようとするとそうなるのでしょう。

ただ、私自身は、いかなる記述であっても、それなりに意味のある記述である限りは(執筆者自身の私見や個人的主張が垣間見られる内容、あるいは明確な悪戯でない限りは)その記述は極力尊重すべきと思っています。その根拠が『自主(己)公表された情報源』にのみ依る場合であれば、それを安易に除去するのではなく、検証可能性のある出典に置き換えるべきだろうと思っています。この部分については、公式な方針であるWikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいに則って行動しているつもりです。

最初の話に戻りますが、私が『自主(己)公表された情報源』の使用について“執筆者本人が”という解釈を加えたのは、一つにはこのスタンスに基づいている、というのがあります。確かにWiki708さんがご指摘のようにWikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に照らせば、間違った解釈ということになるのでしょう。しかしながら、その前提にあるWikipedia:編集方針に照らしたとき、これを厳格すぎるくらい厳格に適用するのは果たして適切なのだろうか、と考える次第です。--Bsx 2009年10月15日 (木) 11:11 (UTC)[返信]

度重なる丁寧なご返答ありがとうございました。お互いの編集のスタンスというか、思想の違いがある程度明確になったのでよかったです。ただし、「その前提にあるWikipedia:編集方針に照らしたとき」との発言についてですが、Wikipedia:編集方針#完璧でなくてもよいのです。編集を楽しんでください。には、 "不完全な記事を投稿することも歓迎されるべき" とありますが、それは "中立的な観点検証可能性独自研究は載せないの記事における三方針、並びに著作権など、ウィキペディアの基本方針とガイドラインに反しないものであるならば、" とあるので、『方針・ガイドラインを守ること』を前提として『編集方針』があるものと解するのが妥当だと思います。つまり、『方針・ガイドラインを守ること』と『編集方針』の主従が逆だと思います。(言葉遊びみたいですみません。)
「厳格すぎるくらい厳格に適用する」のは「だれでも執筆できるWikipedia」という観点から問題かもしれません。しかし、そもそもWikipediaはより質の高いを百科事典を作るプロジェクトですし、存命人物の伝記を執筆する際は、 "他の分野の記事ではできの悪い記事でも、よくなるのを気長に待っていればいいでしょうが、存命中の人物の記事の場合はばっさり削るか、消してしまうべき" Wikipedia:存命人物の伝記#どのように書くべきかとして、三方針の厳格適用が公式方針として明示されているのも事実です。よって、「『現存する人物』の記事内容の大半が除去対象になりうる」のは、信頼できる情報源が記されてない限りやむを得ないと思います。その記事に価値があると思えば、そう思う人が出典を付加すればいいだけの話です。Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に
ところで、「ノート:山村進」において、Bsxさんは「Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源についての私(Wiki708)の解釈が間違っている」という主旨の発言されておりますが、ここでの議論(というか編集スタンスの確認)を踏まえると適切ではないように思います。「ノート:山村進」において、該当箇所と付随する部分の意見の修正を望みます。 --Wiki708 2009年10月15日 (木) 15:51 (UTC)[返信]

ご希望の箇所については部分的に修正を加えております。

Wikipedia:編集方針Wikipedia:基本方針とガイドラインのどちらが主でどちらが従かという議論は、私自身は「卵が先か鶏が先か」の関係に近いと思っており、どちらかを重視するが故にどちらかを軽視してよいというものではないと思っています(基本方針を厳格に適用としたら編集方針の本質の部分を損ねるというのは私が先に述べたとおりですし、編集方針の前提に基本方針があるというWiki708さんの読み取り方も然りでしょう)。敢えていうなら、Wikipediaを編集するにあたっての車輪の両輪のようなもの、とでも言うべきだろうと思っています。

ただ私は、記事の質の高さを求めるばかりに、記事が立項されてまもなく「この記事は良質な記事にある見込みがないので削除する」というスタンスに立つのであればそれは本末転倒ではないかと思います。例えば山村進の記事は、光市POVの編集を繰り返し行っているユーザーによる新規立項というのは百も承知ですが、POVに問題があると思うのであればPOVでない資料を捜すのが本来の手順ではないかと思うのです(ですから私は、外部サイトに出典を委ねた上で、そこに記述してある以上の加筆は行っていません)。Wikipedia:存命人物の伝記#どのように書くべきかで示された方針にしても、前提として「存命人物の伝記は責任を持って、保守的・中立的・百科事典的に書くべき」というのがあるのですから、記述された内容がそうであるかないかを吟味した上で「ばっさり削るか、消してしまうべき」という判断に到るべきだろうと思っています。その意味で、出典がないからと行って安易に削るというスタンスには与すべきではないと考えています。--Bsx 2009年10月17日 (土) 02:19 (UTC)[返信]

修正ありがとうございました。Bsxさんが、立項された記事を生かすべくなんとかPOVでない資料を探しだし、補強しようとされているのは分かっています。ので、Bsxさんについては、出典を示す責任は全うされていると思っています。なおも、「山村進についての信頼できる情報源が少ない」というのは今のところ否定し得ない事実であり、WP:Vの点から非常に問題のある記事であると思います。そして、私が削除依頼を提出したのは立項後(Bsxさんが出典提示して)1ヶ月近く経過しているのであって、それを「記事が立項されてまもなく」と言えるのかどうか。「出典がないからと行って安易に削るというスタンスには与すべきではない」というBsxさんの考え方について間違っているなどとと批判するつもりはないですが、「検証可能性」のノートにも関連する議論(質問)があるようですので、それを参照いただいたうえで、もう一度お考えいただければと思います。-Wiki708 2009年10月17日 (土) 04:41 (UTC)Wiki708 2009年10月18日 (日) 09:16 (UTC)、事実誤認の部分に打ち消し線追加)[返信]

“削除依頼を提出したのは立項後(Bsxさんが出典提示して)1ヶ月近く経過しているのであって、それを「記事が立項されてまもなく」と言えるのかどうか。”とのご説明ですが、そうだったかなと思い山村進の記事の更新履歴を確認したところ、当該記事の新規立項が9月12日、私が加筆したのが翌13日で、Wiki708さんが削除依頼を提出されたのが9月15日です。1ヶ月どころか、立項後3日目での削除依頼ですよね。どこかで事実誤認されておられませんか?

「検証可能性」のノートを拝見しました。私も「検証可能性を満たさない情報は載せない」(≒出典のない情報は事実でない)というのは百も承知です。ですので、私は客観的な出典をできるだけ明らかにしようとしている次第です。削除依頼が提出されたので、新たな編集はペンディング状態にある状態ですし、出典文献を探すために図書館にでも出向きたいところですがその時間的余裕がない、というのもあることだけは意見表明しておきます。 --Bsx 2009年10月18日 (日) 06:49 (UTC)[返信]

ご指摘の通り完全な事実誤認でした。修正しました。削除依頼を提出しても加筆されない状態が1ヶ月近く続いていたことで、記憶がちょっと錯綜してしまいました。
まあ「拙速であった」という批判は甘んじて受けるとしても、削除依頼を出したことが出典追加意欲の抑制につながったとは断言できない(むしろ出典付加の動機付けになった?)ですので、「削除依頼が拙速であったか否か」はあまり重要な問題ではないように思います。仮にの話ですが、「拙速な削除依頼提出」を理由に削除依頼を取り下げて、議論を仕切り直したほうがよいでしょうか?結果的に同じ議論をするわけで、全く無駄なように個人的には思いますが。 --Wiki708 2009年10月18日 (日) 09:16 (UTC)[返信]

出来ればそうしていただけるとありがたいと思っています。Wikipedia:削除依頼/山村進の決着がここまで長引いているのは、削除に賛成と反対の意見があり、議論によってどちらかに収束する気配が見られないからであろうと考えていますので、当面記事存続の上で(客観的な出典に基づく加筆が見られないなどの状況を確認された上で)仕切り直しされることを希望します。--Bsx 2009年10月19日 (月) 13:16 (UTC)[返信]

あのようなことを言っておきながら申し訳ないですが、「拙速であったこと」のみを理由に依頼取り下げをするのはもはや遅きに失した感があるとも考えておりまして、いまのところ依頼を取り下げる合理的な理由が見あたらないのが私の感想です。削除依頼をするということに何かマイナスな作用がある(あった)のか疑問で、マイナス面があるとすれば出典の明記を急かすということのみで、それは果たして悪いことでしょうか。むしろ、必要にせまられたとはいいながら、記事の精度を高める試みへの動機付けとなったのではと考えています。(もちろんそうした動機付けを与えるのが今回の削除依頼の主たる理由ではありません。念のため。)
たしかに「削除依頼をする」、「{{要出典}}を付与する」という私のこの度の編集行動が「この記事(部分)を削除するべき」という前提に立つものであることは否定しませんし、そのことがBsxさんの編集方針からすれば批判せずにはおられないことなのかもしれません。しかし、私は何がなんでも削除・除去するべきと考えているのではなく、「『根拠がなければ』除去するべき」ということであって、逆の言い方をすれば、「『根拠があれば』当然ながら存続するべき」だと考えてます。根拠とは信頼できる情報源であり、私が依頼を取り下げるとすればそれが明確に示されるときです。
Wikipedia:削除依頼/山村進が削除するべきか存続するべきかについてまだ結論が出ていない現在においては、事実上「存続している」のであって、その間は議論する時間も資料を探す時間も十分あるとはいえないでしょうか。仮にBsxさんが出典文献を見つけるのが削除に間に合わなかったとしても、ログを作成しておくなどして、信頼できる情報源をもとに記述された精度の高い記事を新規立項すればよいだけの話だと思います。
また、今後客観的な出典に基づく加筆が見られない状態が継続したあとに「削除」となるか「削除検討」となるかという問題がありますが、方針を厳格適用するか弾力的に運用するかの見解の相違により、ふたたび意見は対立するでしょう。依頼を取り下げは議論の中断に過ぎず、加筆が見られない状況が変わらなければ、今揉めるべき問題を先送りしただけではないでしょうか。そして、依頼を取り下げが事態を好転させる要因になり得るかといえば、私にはそうは思えません。
私は依頼を取り下げることにメリットを感じることができませんし、ほかの方の意見を待ちたいとも考えてますので、とりあえずは依頼を取り下げずにいたいと思います。 --Wiki708 2009年10月19日 (月) 16:26 (UTC)[返信]

削除依頼は取り下げられないということですね。Wikipedia:削除依頼は本来その記事が削除されるべきかどうかのみを判断する場であり、削除要件を取り除くための議論のきっかけの場ではない(例えば、著作権侵害の案件であれば、削除依頼後にその記述を除いても著作権侵害があったというログが残りますから、削除依頼の対象から外れることはありません)と考えるのですが、Wiki708さんの議論の前提条件がノート:山村進においてでさえも「記事を削除すべき」というスタンスにあるということは、残念ながら「記事が存続した上でよりよいものにすべき」という私のスタンスとは相容れないものだと思われ、非常に残念に思っています。

併せていうならば、削除依頼を正当化するために(本来はその記事をよりよくするための議論の場であるはずの)ノートを利用してまでも一つ一つの出典のあり方を否定し「やっぱりこの記事は執筆すべきではない」との結論に持って行こうとする姿勢は、その記事のあり方に対する客観的な姿勢で望んでおられるものとはとうてい思えず、これはもはや私とWiki708さんの執筆スタンスの違い以前の問題であり、公式な方針であるWikipedia:中立的な観点#フェアであることと、好意的な立場Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいに反するものだと考えていますが、この点についてWiki708さんはいかがお考えでしょうか。--Bsx 2009年10月19日 (月) 23:01 (UTC)[返信]

このところのBsxさんは、『記事の内容』の是非ではなく、『執筆者の編集方針(姿勢)』を批判する方向にシフトしているようですね。自らの主義・主張の押し付けになっているようで、冷静で生産的な議論が行えているとはとても思えません。
Bsxさんはことさら「中立的な観点」について言及されていますが、私は、山村進について記載内容の「偏り」を問題に該当部分を除去しようとしているのではなく、「信頼性の低さ」(検証可能性)を問題しているのはご理解いただけていますでしょうか。(削除依頼は「特筆性」も問題にしてますが。)
Wikipedia:中立的な観点では『記事の内容』を中立的な観点で充実させるということを述べてありますが、「信頼性の低い情報」と「信頼性の高い情報」を平等に扱うことまでは示していないと思います。「信頼性の低い情報」と「信頼性の高い情報」を平等に扱うという解釈は、Wikipedia:検証可能性とは相容れないのでは?
また、Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいは、「記事内容の大規模な除去や置き換えを行う場合には事前にノートで提案」することを述べています。私は、「削除依頼」の提出、{{要出典}}の付与、削除の必要性をノートに述べたりはしましたが、まだ記事内容の大規模な除去や置き換えを実行に移してませんよ。現に記事のほとんどは温存されていますよね。「削除を『主張』すること自体がWikipedia:編集方針に反する行為である」と断定的に述べるのは、かなり乱暴なもの言いだなと思います。
私の『編集方針(姿勢)』を批判したいがため、削除(依頼)の不当性を強調したいがために、各方針の拡大解釈、さらに曲解に至ってませんでしょうか。
記事の客観性・信頼性は十分かつ質の高い情報源によって保持されるはずです。しかしながら、山村進については信頼できる情報源が少ない。Bsxさんは、そうした事実を棚上げにするのではなく、まずは十分かつ質の高い情報源を提示するのが先決ではないでしょうか。 --Wiki708 2009年10月20日 (火) 11:49 (UTC)[返信]

申し訳ありませんが、私はWiki708さんとは反対の見方をしています。すなわち(多少乱暴な言い方ですが)Wiki708さんが「自分の執筆基準に相容れない記事を除去する」ために公式方針を振りかざしているとの懸念を払拭できないでいるのです。

以前述べたとおり、私は、記事の内容に関しては「執筆者の私見なり偏見に基づくものでない限り、その記述を尊重すべき」というスタンスを取っています。明らかに執筆対象の評価を貶める行動に到っていない限りは、その執筆行動そのものは、たとえ公式方針に反したものであったとしても、一義的に否定されるべきものではないと思っています(これは以前からのものであり、この最近行動を変化させたものではないと考えています。客観的に見てどうかというご見解はあるかもしれませんが)。

信憑性をいかに評価するかという点に関しては、たしかにWikipediaでは検証可能性に基づくというのは私も承知していますし、その意味でWiki708さんの執筆行動を否定するつもりはさらさらありませんし、私自身も基本的にはその基準に基づいて行動してきたというのはこれまでも再三書いてきたとおりです。ただ、これを逆手にとって他者の執筆内容について「だから削除されるべきなのだ」という意見を主張されるのは、多様な編集の方向性を尊重するWikipedia:編集方針に反する行為ではないかとの疑念をぬぐい去れません。先の削除依頼取り消しの依頼についても、正直言って執筆3日目の削除依頼に私自身が相当カチンと来たのも事実ですし、私はWiki708さんの「まず削除ありき」というスタンスではその後の記事を熟成させるための議論にならないとの懸念があってのものだったのですが、残念ながら自己の主張の正当性を振りかざしているようにしか映らなかった、というのが正直な感想です。私が出典を捜す行為についても、早々に「出典がないので執筆する勝ちがない記事なので削除する」という結論を導かないかという強い懸念があるのも事実です。

私は、Wiki708さんの執筆方針そのものを否定するつもりはありません。ただ、自身の執筆方針を主張するが為に他者の執筆方針を否定するスタンスはいかがなものか、と思っています。--Bsx 2009年10月20日 (火) 14:40 (UTC)[返信]

さきに私は、"「『自主(己)公表された情報源』の使用自体を、慎重に取り扱うべき。ただし、専門家やジャーナリストが自主公表した場合や、『自主(己)公表された情報源』が出版社などから公刊・発表される場合、『自主(己)公表された情報源』の内容が『信頼できる情報源』(雑誌・新聞)の内容と矛盾がない場合などには使用できる。よって、これらの場合を除いて、『自主(己)公表された情報源』は原則的に排除されるべきである。」と自らの執筆方針を表明している。Bsxさんが「その方針(とそれに基づいた行動)を否定するつもりはない」といいながら、「Wikipedia:編集方針に反する行為ではないかとの疑念」、「自身の執筆方針を主張するが為に他者の執筆方針を否定するスタンスはいかがなものか」とも発言しており、その整合性がとれてない。
それに関連して、私は記事内容に問題があって除去(の提案)を行っているが、そうした除去(の提案)を「他者の執筆方針の否定」と捉えるのは、飛躍しすぎ。
さらに、Wikipedia:編集方針における本質や前提について私とBsxさんの間で見解の相違があるなかで、私の編集方針(行動)がWikipedia:編集方針に反する行為であるとの指摘は、私にとってなんら説得力を持たない。
総じて、Bsxさんの主張は、主として自らの編集スタンスや思想に裏付けられた各方針の(独自の)『解釈』によって構成されている。その『解釈』はコンセンサスを得たものか不明。「私(Bsxさん)の解釈からすれば、あなた(Wiki708)の考え方・行為は間違っている。」と言われても、私は「はあ、そうですか。」としか答えようがない。 --Wiki708 2009年10月21日 (水) 16:21 (UTC)[返信]

私のスタンスが他者(もちろんWiki708さんも含まれます)の執筆方針を否定するものではない、というのはこれまでも再三述べてきたとおりですが、その一方で「自己の主張の正当性を述べるために他者の執筆方針を否定するような行動」は当事者であっても第三者であってもいささか許容しがたいものがあると考えています(この私の考えが、逆にWiki708さんの執筆方針を否定されている行為のように感じておられるのであれば、それは私の言葉の至らなさによるものとしかいいようがありません)。もちろん、Wikipediaに参加するにあたって公式な方針に明らかに反する行動はたしなめられるべきだと考えますし、Wiki708さんのここまでの私に対するコメントはそれに基づいておられるものであろうとは思います。とはいえ、その行動の背後に特定の記事に対して「この記事は存在に値しない記事である」というWiki708さんのスタンスが垣間見えるので、ここまでWiki708さんに抗うコメントを繰り返しているのです。

具体的に山村進の記事に関して言うならば、「記事内容に問題があって除去(の提案)を行っている」とのご説明ですが、執筆3日目という最初の削除依頼提出の時期、あるいはその後の削除依頼なりノートでのWiki708さんのコメントを見る限り、どうしても「記事の存在に問題があって除去(の提案)を行っている」ように映ってしまうのです。削除依頼の取り下げをお願いした件についても、「まず削除ありき」のスタンスから離れない限りは記事をよりよくしようという議論は生まれにくいのではないかと考えるのですが…まあ、これらもWiki708さんにとってみれば、きっと「Bsxの独自解釈でしかない」ということなのでしょう。

ここまで、お互いの執筆方針について述べてきましたが、どうも少なからず相容れない部分もあるようですし、これ以上おつきあいいただいても平行線の議論が続いてしまってWiki708さんにとってもご迷惑でしょうから、一旦区切りとしたいのですが、いかがでしょうか(もちろん、私が山村進の記事の執筆や議論から撤退するという意味ではありません)。よろしくお願いします。--Bsx 2009年10月22日 (木) 12:06 (UTC)[返信]

よいでしょう。存命人物についての記事である山村進の記事が、WP:NPOVWP:VWP:NORの観点から問題なく加筆され、百科事典に掲載するべきとされるほどの当該人物の特筆性が余すことなく表現されることを期待します。虚偽や誇張表現、典拠不明・検証不可能な記述があれば、適切な処理を実施または提案させていただきます。--Wiki708 2009年10月24日 (土) 09:19 (UTC)[返信]

晃英館中学校の記事統合について(議論参加のお願い)

[編集]

お世話になります。以前Wiki708さん主導で記事統合が行われた山口県桜ケ丘中学校・高等学校について、最近(中学部を改名した)晃英館中学校の記事が立項されています。今回、再び記事統合を提案しましたので、よろしければ議論にご参加いただけますでしょうか。よろしくお願いします。--Bsx 2009年11月8日 (日) 04:51 (UTC)[返信]

了解しました。参加します。--Wiki708 2009年11月8日 (日) 09:53 (UTC)[返信]

利用者‐会話:Tiyoringoでの見出しの件

[編集]

はじめまして、Mamamiyaと申します。利用者‐会話:Tiyoringoでの件ですが、見出しにリンクを貼っているようなので些細なことですが、お知らせに参りました。Wikipedia:スタイルマニュアル (見出し)#見出しの中でリンクはしないという、考慮するべきガイドラインがあります。実は、お知らせしている私もやってしまっていたことなのですがね。注意を与えてる方が、見出しにリンクを貼る、方針と考慮すべきガイドラインの差はありますが、できたらしないほうが良いことなので僭越ながらお知らせに来ました。宜しくお願い申し上げます。--Mamamiya 2010年1月5日 (火) 00:01 (UTC)[返信]

ご指摘ありがとうございました。 --Wiki708 2010年1月5日 (火) 10:55 (UTC)[返信]


「ファイル:Watanabe Memorial Hall (Ube).JPG」がコモンズへ移動されました

[編集]

ウィキペディア日本語版にアップロードして頂いたファイル:Watanabe Memorial Hall (Ube).JPGですが、このたびウィキメディア・コモンズcommons:File:Watanabe Memorial Hall (Ube).JPGへ移動されました。 この移動によりあなたの投稿されたファイルは、ウィキペディア日本語版だけでなく、他の言語版やその他の姉妹プロジェクトなどでもより広く利用することが可能になりました!

なお、この移動の後、ウィキペディア日本語版に残っている元のファイル:Watanabe Memorial Hall (Ube).JPGは、Wikipedia:即時削除の方針#ファイル1-5に従いまもなく削除されますので併せてお知らせいたします。--hyolee2/H.L.LEE 2010年12月23日 (木) 05:41 (UTC)[返信]