刈屋他人次郎
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刈屋 他人次郎(かりや たにんじろう[1]、かりや よそじろう、1874年 - 1921年1月6日)は、日本の数学者、陸軍教授[2]。刈屋の定理の発見者として知られる[3]。
来歴
[編集]1874年、岩手県の士族に生まれる[4]。1896年、第二高等学校の第二部理科を卒業、理科大学の数理科に入る[5][6][7]。1900年、東京大学院に理学士として入学し解析学を専攻する[8][9]。同時に学士会に入会する[10]。
1901年、高等官七等を叙し、10月8日、陸軍砲工学校の陸軍教授に任命[11][12][13]。1904年、陸軍省に入る[14]。日本女学校や東洋協会専門学校、台湾協会学校で働いたこともあった[15][16]。1921年1月6日没す[17]。
栄典等
[編集]- 1901年、従七位[18][19]
- 1905年、正七位[20]
- 1907年、瑞六等[21]
- 1908年、勲六等[22]
- 1908年、従六位[23]
- 1911年、高等官四等[24]
- 1912年、正六位[25]
- 1912年、勲五等[26]
- 1917年、従五位[27][28]
- 1919年、勲四等[29]
- 1921年、正五位[17]
著作
[編集]- 藤田外次郎共著『初等微分積分学』金刺芳流堂、1902年。doi:10.11501/828980。
- 野原休一共著『算術教本』普及社、1902年11月。[30]
- 『新撰応用重学』博文館、1904年。doi:10.11501/830183。
- 野原休一共著『新編初等重学』富山房、1904年。doi:10.11501/830199。
- 野原休一共著『算術新教本』中外圖書局、1905年4月。
- 林鶴一共著『公算論 : 「確カラシサ」ノ理論』大倉書店、1908年。doi:10.11501/827948。
- 林鶴一共著『不等式』大倉書店、1910年。doi:10.11501/828366。
- 『平面解析幾何学講義』金刺芳流堂、1910年。doi:10.11501/828811。
- 『重学講義』金刺芳流堂、1912年。doi:10.11501/830134。
- 『師範教科新算術』帝國書院、1918年1月。
- 『女子教科新算術』帝國書院、1918年1月。
- 『中学校用新算術』帝國書院、1918年1月。
- 佐藤林蔵共著『実用工業数学』金刺芳流堂、1921年。doi:10.11501/960459。
- 『最小自乗法講義』東京物理学校同窓会、1929年。doi:10.11501/1120525。
- 藤田外次郎,梶島二郎共著『数学公式』三省堂、1944年9月。
出典
[編集]- ^ 早川貞水『皇国の花 : 講談 前編』大江書房、1914年。doi:10.11501/945453。
- ^ “陸軍教授刈屋他人次郎奏任文官俸給制限外下賜ノ件”. www.digital.archives.go.jp. 2024年7月25日閲覧。
- ^ 『解析幾何学 : 円錐曲線』山海堂出版部、1914年、732頁。doi:10.11501/952208。
- ^ 『官報』3911号、大蔵省、1896年7月13日。doi:10.11501/2947191。
- ^ 『官報』3966号、大蔵省、1896年10月22日。doi:10.11501/2947278。
- ^ 『官報』5106号、大蔵省、1900年7月11日。doi:10.11501/2948400。
- ^ 『第二高等学校一覧』第二高等学校、1911年。doi:10.11501/812945。
- ^ 『官報』5171号、大蔵省、1900年9月25日。doi:10.11501/2948465。
- ^ 『官報』5186号、大蔵省、1900年10月12日。doi:10.11501/2948480。
- ^ 『学士会会員氏名録』学士会事務所、1901年11月、64頁。doi:10.11501/994989。
- ^ 『官報』5482号、大蔵省、1901年10月9日。doi:10.11501/2948781。
- ^ 『東北帝国大学理科大学医科大学一覧 自大正7年 至大正8年』東北帝国大学、1919年、215,223頁。doi:10.11501/940216。
- ^ 安藤, 洋美 (2000-02). “我が国における明治期の確率・統計の教育について (数学史の研究)”. 数理解析研究所講究録 1130: 174–188. ISSN 1880-2818 .
- ^ 『官報』6300号、大蔵省、1904年7月1日。doi:10.11501/2949619。
- ^ 『女子東京遊学案内』積文堂、1901年。doi:10.11501/813138。
- ^ 『帝国学校名鑑』学校新聞社、1910年。doi:10.11501/813002。
- ^ a b 『官報』2539号、大蔵省、1921年1月21日。doi:10.11501/2954654。
- ^ 『官報』5547号、大蔵省、1901年12月27日。doi:10.11501/2948848。
- ^ 『職員録 明治35年現在(甲)』印刷局、1902年。doi:10.11501/779782。
- ^ 『官報』6648号、大蔵省、1905年8月26日。doi:10.11501/2949981。
- ^ 『官報』7098号、大蔵省、1907年3月1日。doi:10.11501/2950443。
- ^ 『官報』7501号、大蔵省、1908年6月29日。doi:10.11501/2950848。
- ^ 『官報』7606号、大蔵省、1908年10月31日。doi:10.11501/2950953。
- ^ 『官報』8559号、大蔵省、1911年12月29日。doi:10.11501/2951916。
- ^ 『官報』8608号、大蔵省、1912年3月2日。doi:10.11501/2951965。
- ^ 『官報』124号、大蔵省、1912年12月27日。doi:10.11501/2952222。
- ^ 『官報』1389号、大蔵省、1917年3月22日。doi:10.11501/2953502。
- ^ 『官報』1419号、大蔵省、1917年4月27日。doi:10.11501/2953532。
- ^ 『官報』2220号、大蔵省、1919年12月26日。doi:10.11501/2954333。
- ^ 『官報』5919号、大蔵省、1903年3月30日。doi:10.11501/2949224。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- “刈屋 他人次郎”. Webcat Plus. 2024年7月26日閲覧。