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刀利宣令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

刀利 宣令(とり の せんりょう/みのり/のぶよし、生没年不詳)は、奈良時代官人学者。氏は土理刀理とも記す。はなし。官位正六位上伊予掾

出自

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刀利氏は百済系の渡来氏族で、『新撰姓氏録』には記録が存在せず、本拠地・祖先伝承とも明らかでない。一族の百済人・甲斐麻呂ら7人は、天平宝字5年(761年)丘上(おかのえ)改姓している[1]。氏人には宣令のほかに刀利康嗣がおり、ともに『懐風藻』に漢詩作品が掲載されている。

経歴

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養老5年(721年元正天皇により佐為王紀男人日下部老山田三方山上憶良紀清人越智広江山口田主楽浪河内土師百村塩屋吉麻呂らとともに、退朝後に教育係として皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍することを命じられている(この時の位階従七位下[2]

経国集』には和銅4年(711年)3月5日付の対策文が2つ収められているほか、『懐風藻』には長屋王との親交を示す「秋日長王の宅において新羅の客を宴す」や、「五八の年を賀す」と題する五言律詩が収録されている。

また、『万葉集』には

み吉野の 滝の白波 知らねども 語りし継げば 古(いにしへ)思ほゆ (み吉野の 滝の白波 知らないが 語り継いでくると 昔が偲ばれる)[3]
もののふの 磐瀬(いはせ)の杜(もり)の ほととぎす 今も鳴かぬか 山の常陰(とかげ)に (磐瀬の森の ほととぎすよ 今すぐにも鳴いてくれかぬか 山の常に陰になっているところで)[4]

という和歌作品も掲載されており、一流の文人であったことが窺われる。

没年は不明だが、『懐風藻』目録には正六位上伊予掾、年59歳とあり、上述の2番目の詩を詠んでまもなく没したと想定される。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平宝字5年3月15日条
  2. ^ 『続日本紀』養老5年正月23日条
  3. ^ 『万葉集』巻第三、313番
  4. ^ 『万葉集』巻第八、1470番

参考文献

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