刀利宣令
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刀利 宣令(とり の せんりょう/みのり/のぶよし、生没年不詳)は、奈良時代の官人・学者。氏は土理・刀理・刀とも記す。姓はなし。官位は正六位上・伊予掾。
出自
[編集]刀利氏は百済系の渡来氏族で、『新撰姓氏録』には記録が存在せず、本拠地・祖先伝承とも明らかでない。一族の百済人・甲斐麻呂ら7人は、天平宝字5年(761年)丘上(おかのえ)連に改姓している[1]。氏人には宣令のほかに刀利康嗣がおり、ともに『懐風藻』に漢詩作品が掲載されている。
経歴
[編集]養老5年(721年)元正天皇の詔により佐為王・紀男人・日下部老・山田三方・山上憶良・紀清人・越智広江・山口田主・楽浪河内・土師百村・塩屋吉麻呂らとともに、退朝後に教育係として皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍することを命じられている(この時の位階は従七位下)[2]。
『経国集』には和銅4年(711年)3月5日付の対策文が2つ収められているほか、『懐風藻』には長屋王との親交を示す「秋日長王の宅において新羅の客を宴す」や、「五八の年を賀す」と題する五言律詩が収録されている。
また、『万葉集』には
み吉野の 滝の白波 知らねども 語りし継げば 古(いにしへ)思ほゆ (み吉野の 滝の白波 知らないが 語り継いでくると 昔が偲ばれる)[3]
もののふの 磐瀬(いはせ)の杜(もり)の ほととぎす 今も鳴かぬか 山の常陰(とかげ)に (磐瀬の森の ほととぎすよ 今すぐにも鳴いてくれかぬか 山の常に陰になっているところで)[4]
という和歌作品も掲載されており、一流の文人であったことが窺われる。
没年は不明だが、『懐風藻』目録には正六位上・伊予掾、年59歳とあり、上述の2番目の詩を詠んでまもなく没したと想定される。