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内藤政光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
内藤政光
ないとう まさみつ
生年月日 1891年3月24日
出生地 日本の旗 日本 愛知県西加茂郡挙母村
(現・愛知県豊田市
没年月日 (1961-03-28) 1961年3月28日(70歳没)
出身校 東京帝国大学文学部国史学科卒業
前職 外務省調査局勤務
所属政党 研究会
配偶者 内藤道
子女 養子・内藤政恒
親族 祖父・槇村正直(貴族院議員)
父・内藤政共(貴族院議員)

在任期間 1946年5月10日 - 1947年5月2日
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内藤 政光(ないとう まさみつ、1891年明治24年)3月24日[1] - 1961年昭和36年)3月28日[1][2])は、大正から昭和期の考古学者、政治家華族貴族院子爵議員

経歴

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愛知県西加茂郡挙母村(現豊田市)で子爵内藤政共の長男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い、1902年(明治35年)12月23日、子爵を襲爵した[1][3][4]

1916年(大正5年)3月、学習院高等学科を卒業し[5]、さらに、1922年(大正11年)東京帝国大学文学部国史学科を卒業した[2][3]

1924年(大正13年)実践女子専門学校講師に就任[2][3]。以後、国士舘専門学校講師、同教授、東京帝室博物館歴史課事務嘱託、同館学芸委員、外務省調査局勤務などを務めた[2][3][5]

1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[6][7]研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]

栄典

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著作

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  • 柴田常恵、内藤政光『埴輪』日本考古図録大成:第7輯、日東書院、1930年。
  • 『足利市織姫神社境内古墳発掘調査報告』1937年。(後藤守一との共同研究[5]
  • 後藤守一・内藤政光・高橋勇 [著] 、加藤菅根編『静岡縣磐田郡松林山古墳発掘調査報告』静岡県磐田郡御厨村郷土教育研究会、1939年。

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 下巻』212-213頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』49頁。
  3. ^ a b c d e 『人事興信録 第14版 下』ナ11頁。
  4. ^ 『官報』第5844号、明治35年12月24日。
  5. ^ a b c 『日本考古学人物事典』180頁。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、56頁。
  7. ^ 『官報』第5815号、昭和21年6月5日。
  8. ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1916年4月11日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
  • 斎藤忠『日本考古学人物事典』学生社、2006年。


日本の爵位
先代
内藤政共
子爵
挙母内藤家第2代
1902年 - 1947年
次代
華族制度廃止
当主
先代
内藤政共
挙母藩内藤家
13代
1902年 - 1961年
次代
内藤政恒