六角英通
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(六角玄通から転送)
六角英通 ろっかく ひでみち | |
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生年月日 | 1902年5月19日 |
出生地 | 日本 京都府京都市 |
没年月日 | 1987年12月19日(85歳没) |
出身校 | 東北帝国大学工学部電気学科卒業 |
前職 | 電気工学者 |
所属政党 | 研究会 |
称号 | 工学博士 |
配偶者 | 六角照代 |
在任期間 | 1946年5月10日 - 1947年5月2日 |
六角 英通(ろっかく ひでみち、1902年(明治35年)5月19日[1] - 1987年(昭和62年)12月19日[1][2])は、昭和期の電気工学者[3]、政治家、華族。貴族院子爵議員。工学博士[1]。
経歴
[編集]京都市[3]で子爵・六角玄通の長男として生まれる[1][4][5]。1907年(明治40年)9月、父の死去に伴い家督を継承し、同年11月27日、子爵を襲爵した[1][4][5][6]。
1924年(大正13年)学習院高等科を卒業し[5]、1927年(昭和2年)東北帝国大学工学部電気学科を卒業[2][3][5]。1930年(昭和5年)逓信省に入省し電気試験所技師に就任[2][5]。東北大学講師、同教授などを経て、1963年(昭和38年)から1976年(昭和51年)まで相模工業大学(現湘南工科大学)学長を務めた[2][5][3]。その他、宮内省御用掛となった[2]。
1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[7][8]、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。同年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した[9]。
著作
[編集]- 『異常電圧と送電系統の防護』修教社書院、1933年。
- 高崎卓二郎、村上孝一との共著『発変電工学演習』学献社、1962年。
親族
[編集]- 父:六角玄通(1870-1907)
- 妻:為子(1877-1904)- 清岡長延の娘で清岡長言の妹[10]。
- 妻:照代 - 熊本製糸社長・長野関吉(長野濬平三男)の二女[1][11][12]。
- 妹:信子 - 六角玄通二女、明治36年生。子爵町尻量弘の養女となる(義兄に町尻量基)[13]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』下巻、843-844頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』60頁。
- ^ a b c d 『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』683頁。
- ^ a b 『大日本人物誌』ろ1-2頁。
- ^ a b c d e f 『人事興信録』第14版 下、ら行6頁。
- ^ 『官報』第7326号、明治40年11月28日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、56頁。
- ^ 『官報』第5815号、昭和21年6月5日。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』539頁。
- ^ 『現代華族譜要』706頁。
- ^ 長野関吉(読み)ながの かんきちコトバンク
- ^ 熊本県の近代蚕糸業の開祖 長野濬平山鹿市教育委員会、平成22年
- ^ 『現代華族譜要』582頁。
参考文献
[編集]- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 維新史料編纂会編『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年。
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 日外アソシエーツ編『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』日外アソシエーツ、1988年。ISBN 4-8169-0763-7
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
日本の爵位 | ||
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先代 六角玄通 |
子爵 六角家第3代 1907年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |