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八重沢憲一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八重沢 憲一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 青森県三沢市
生年月日 (1951-09-30) 1951年9月30日(73歳)
身長
体重
176 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1969年 ドラフト外
初出場 1970年4月16日
最終出場 1975年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

八重沢 憲一(やえざわ けんいち、1951年9月30日 - )は、青森県三沢市出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物

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三沢高では遊撃手として、同学年でエースの太田幸司とともに3季連続で甲子園に出場。1968年夏の選手権は2回戦に進むが、海星高に敗退[1]。翌1969年春の選抜は1回戦で楠城徹のいた小倉高を降すが、2回戦で浪商に敗れる[2]。同年夏の選手権では一番打者としてチームを牽引し、準決勝では玉島商のエース松枝克幸(法大-西川物産)の好投に苦しむが3-2で辛勝。決勝は太田と松山商井上明との投げ合いとなり、延長18回0-0で引き分け。翌日の再試合の末2-4で敗退した[1]ものの、三沢高の準優勝に大きく貢献した。他の高校同期に捕手の小比類巻英秋(三和銀行)、四番打者、三塁手の桃井久雄(日大)がいる。8月末からは太田らとともに全日本高校選抜の一員としてブラジル・ペルー・アメリカ遠征に参加する。

当初は進学希望であったが、ドラフトで太田を指名した近鉄が接触すると1969年にドラフト外東映フライヤーズへ入団。1970年に一軍に上がり、遊撃手、三塁手として2試合に先発出場。1971年にはジュニアオールスターに選出されるが、一軍では控え内野手にとどまる。1974年には自己最多の43試合に出場、5月には3試合に遊撃手として先発するが打撃面で伸び悩む。

1975年オフに服部敏和永淵洋三市橋秀彦とのトレードで阪本敏三と共に近鉄バファローズへ移籍し、再び太田とチームメイトになった。ここでは一軍出場の機会はなく、1976年限りで引退

現在は、自営業。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1970 東映
日拓
日本ハム
17 18 16 3 3 0 0 1 6 1 0 0 1 0 1 0 0 5 1 .188 .235 .375 .610
1971 10 10 9 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .111 .200 .111 .311
1972 13 15 14 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 6 0 .071 .071 .071 .143
1973 6 9 8 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 2 0 .000 .111 .000 .111
1974 43 61 51 3 4 0 0 1 7 2 0 1 4 0 6 0 0 14 2 .078 .175 .137 .313
1975 18 16 15 1 1 0 0 1 4 1 0 0 1 0 0 0 0 5 0 .067 .067 .267 .333
通算:6年 107 129 113 7 10 0 0 3 19 4 1 1 7 0 9 0 0 36 3 .088 .156 .168 .324
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

記録

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背番号

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  • 6 (1970年 - 1974年)
  • 39 (1975年)
  • 36 (1976年)

脚注

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  1. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年

関連項目

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