八七会
八七会(はちななかい)は1945年(昭和20年)8月7日の豊川空襲で生存した、豊川海軍工廠の従業員の会。1957年(昭和32年)の結成以来、被害者の慰霊、工廠や空襲の記録、語り継ぎなどを行ってきた。2020年(令和2年)8月7日に会としての活動に終止符を打った[1]。
概要
[編集]豊川海軍工廠は日本海軍直属の巨大工場で、銃器や弾丸、信管などを製造していた。第二次世界大戦当時「東洋一の兵器工場」と称されたが、終戦間際の1945年(昭和20年)8月7日、アメリカ軍による空襲で甚大な被害を受けた。工員や職員のほか、勤労動員されていた中学生・女学生・国民学校児童、工廠周辺の一般人など、2,500名以上が犠牲になり、壊滅した。
八七会はその生存者の会として1957年(昭和32年)に結成された。結成以来、慰霊的な活動、語り部的な活動、記録や展示などの活動を地道に続けてきた。会員の高齢化と役員後継者の不足から、2020年(令和2年)8月7日の慰霊祭をもって活動を終了した。
結成経緯
[編集]終戦間もなく、豊川空襲の遺族たちによって豊川市新道町に墓や供養塔が建てられた(通称「諏訪墓地」)。1946年(昭和21年)9月23日には豊川稲荷の北西の地に豊川海軍工廠戦没者の供養塔(略称「供養塔」)が報国団によって建立され、台座には犠牲者一人一人の氏名が刻まれた。以後、供養の中心は自然に諏訪墓地から供養塔に移っていった。
一方、豊川海軍工廠共済病院時代から看護婦が中心となって結成していた「みどり会」が、豊川稲荷妙厳寺本堂で七回忌までの供養を行ってきた。十三回忌が近づくにつれ、工廠の全従業員で供養するように拡大していきたという声が出て、元医務部長であった福本元軍医大佐を初代会長にして「八七会」が結成されることとなった[2]。
1957年(昭和32年)8月7日の十三回忌には遺族を招待、供養塔前に約3,000名の遺族が集まり盛大な供養が行われ、これを契機に遺族への連絡や、慰霊祭を行う民間団体として、全従業員からなる八七会が正式に結成され[3]、以後遺族を招待して供養塔前での慰霊祭が八七会の行事となった[4]。
歴代会長
[編集]- 初代 福本正栄 1957年(昭和32年)8月7日~不明
- 元豊川海軍共済病院軍医大佐。
- 第2代 磯部鷹三[5] 不明~不明
- 第3代 神谷里司 不明~不明
- 第4代 柴田司郎 不明~1984年(昭和59年)
- 第5代 彦坂実 1984年(昭和59年)~2009年(平成21年)6月
- 元豊川海軍工廠工員養成所第4期生
- 彦坂の死去により会長交替。
- 第6代 大石辰己 2009年(平成21年)6月~2021年(令和元年)9月
- 元豊川海軍工廠工員養成所第5期生(機銃部第二機銃工場)[8]
- 最後の会長。会長職のまま死去。
主な活動内容
[編集]活動の主な内容は次の四つに分類される。
- 供養行事
- 語り部としての活動
- 工廠と空襲の記録を残す活動
- 空襲の記録をビデオや出版物として残す。現存する戦争の傷跡を記録する[2]。
- 記念館建設にむけての活動
- 桜ヶ丘ミュージアム(豊川市)の展示に協力する。
- 記録や語り継ぎの拠点となる記念館の建設を目指してきたが、豊川海軍工廠平和公園として結実。その展示や豊川海軍工廠語り継ぎボランティアの育成に協力する[3]。
刊行物
[編集]- 大島信雄編『豊川空襲全殉難者名鑑 豊川海軍工廠(愛知県豊川市)壊滅』八七会、1987(昭和62年)8月7日。
- 巻頭挨拶:山本芳雄豊川市長(八七会名誉会長)、彦坂実会長
- B5叛、341ページ。2,800人を超える被害者(死者)を五十音順に並べ、本籍地、家族構成、空襲当日の行動などを記載する[10]。
- 企画編集(株)スタンバイ『『語り継ぐ豊川海軍工廠大空襲』』(VHS記録映画)八七会、愛知県豊川市、1992年4月1日。
- 彦坂実編集『元海軍工廠戦没者供養塔 写真集「平和の礎」』八七会、1993(平成5年)8月7日。
- A4叛、21ページ。戦没者供養塔、永代供養霊位、慰霊祭、彼岸供養、盆供養、御霊祭その他の写真を載せる。被害者の氏名の刻まれた台座部分も全員分掲載している。
- (株)スタンバイ編『豊川海軍工廠の記録~陸に沈んだ兵器工場(豊川海軍工廠被爆50周年)』八七会、1995(平成7年)8月7日。
- (株)スタンバイ編『豊川海軍工廠の記録~陸に沈んだ兵器工場 再発行改訂版(豊川海軍工廠被爆70周年)』これから出版、2005(平成17年)8月7日。
退潮期
[編集]1981年(昭和56年)当時の会長柴田司郎は八七会幹部の高齢化を心配し、豊川海軍工廠工員養成所出身者で結成する豊養会に協力を要請した。1983年(昭和58年)には工員養成所第4期生の彦坂実が第5代会長に就任した。この頃までは豊川海軍共済病院の関係者が中心メンバーであり、また、会長と言っても名誉職的なところがあった。養成所出身者が会長になったことは会の中心が次の世代に移ったことを意味した。このころより石碑の建立が毎年のように行われ、次代への継承がより意識されていく。
2005年(平成17年)8月7日、60周年の慰霊祭を最後のものとし、以後慰霊祭を行わないこととなった。最年少の会員が70代となっており苦渋の決断であった。毎年の慰霊祭がなくなった後も、供養塔の清掃、犠牲者の供養、語り継ぎ活動は継続された。
2009年(平成21年)6月に彦坂会長が亡くなり第6代に大石辰己が就任すると、翌年の役員会で豊川市に平和公園を造る計画が話題となった。語り継ぎの拠点である記念館の建設は長らく会の悲願であり、その実現に向け、体験を語り、平和への思いを伝えることで支援することとなった。また、豊川海軍工廠語り継ぎボランティアの養成にも協力した。
2018年(平成30年)の豊川海軍工廠平和公園開園に際して、放送設備とともに多くの関連書籍や資料を寄贈。その書籍は園内の豊川市平和交流館にて「八七会文庫」として顕彰公開されている。
2021年(令和元年)9月大石会長が急逝。会員が高齢化した八七会は次の会長を選出することなく、翌年8月7日、会としての活動を終了した。[3]
主な活動歴と関連事項
[編集]- 1945年(昭和20年) 供養塔地鎮祭(10月25日)
- 1946年(昭和21年) 供養塔完成(9月23日)
- 1957年(昭和32年) 八七会結成(8月7日)。供養塔「由来碑」建立(8月7日)
- 1965年(昭和40年) 工廠神社跡地に「平和の像」建立 [14](8月1日完成、17日除幕式)[2]。「平和の像由来記」(銅板製)設置(8月)
- 1978年(昭和53年) 供養塔前灯篭2基制作(12月)
- 1982年(昭和57年) 供養塔由来再建(8月7日)
- 1983年(昭和58年) 由来記念碑再建(8月7日)
- 「平和の像」の銅板製の由来記が腐食してきたため、御影石の由来記念碑を建立[6]
- 1985年(昭和60年) 供養塔前に石塔(「豊川海軍工廠戦没者供養塔」)建立(8月)
- 1986年(昭和61年) 韓国人戦没者の遺族・同僚7名を招待。この年より慰霊祭を供養塔前で実施
- 1987年(昭和62年) 「豊川空襲殉職者名鑑」出版(8月7日)
- 1989年(平成元年) 工廠戦没者県別地図石碑建立(8月7日)
- 1991年(平成3年)「工廠歌」テープ作成(伊藤陽扇家元)(7月)
- 1992年(平成4年) 豊川海軍工廠火工部跡地調査(3月)、ビデオ記録映画『語り継ぐ豊川海軍工廠大空襲』の作成(4月1日)。慰霊碑(地域別戦没者数刻入碑)建立(除幕式12月30日)[16]
- 3月、名古屋大学太陽地球研究所敷地内を調査し、火薬庫、火薬装填場などの施設が幅広く残っていることを確認した。防空壕や着弾跡も確認された。この結果を元にビデオ記録映画が作成され、また、空襲50周年の「豊川海軍工廠の記録」にもまとめられた[17]。
- 1993年(平成5年) 「あぁ豊川海軍工廠女子挺身隊」テープ作成(伊藤陽扇家元)
- 1994年(平成6年) 沖縄県ひめゆり平和祈念資料館を訪問。慰霊参拝とともにひめゆり同窓会との交流。(12月)
- 1995年(平成7年)「豊川海軍工廠の記録」(被爆50周年)発行(8月7日)[11]
- 発足以来、毎年8月7日の慰霊祭には全国各地から生存者や遺族が集まっていた。この年の慰霊祭案内状は約5,000通発送された。これがピークとなった[18]。
- 1996年(平成8年) 豊川市まちづくり委員会より、平成7年度の文化奨励賞を贈呈される。
- 「豊川海軍工廠の残された資料収集や保存に努め、空襲50周年を記念した『豊川海軍工廠の記録』を発行するなどの記録保存活動が評価された[12]。
- 2005年(平成17年) 慰霊祭の縮小(8月7日)
- この年に発送した慰霊祭の案内状4,500通の内1,200通は遺族宛であった。この年の慰霊祭を最後に、以後は従前より豊川市が主催していた「平和祈念式典」に引き継がれることとなった[18]。
- 2012年(平成24年) 豊川稲荷豊川閣妙厳寺に永代供養料奉納
- 2015年(平成27年)「豊川海軍工廠の記録」(被爆70周年)第二刷復刻改訂版発行(8月7日)
- 2018年(平成30年) 豊川海軍工廠平和公園開園(6月9日)[19]
- 2019年(令和元年) 豊川市より感謝状を贈呈される(6月1日)[20]。
- 2020年(令和2年) 豊川市より表彰状を授与される(6月1日)[21]。供養塔の整備、活動終了(8月7日)[3]。
脚注
[編集]- ^ “戦後75年:豊川海軍工廠空襲 生存者の会「八七会」活動終了 供養塔、豊川稲荷に託す 「記憶も後世に伝えて」 /愛知”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2020年8月6日). オリジナルの2020年9月28日時点におけるアーカイブ。 2023年12月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 八七会『「豊川海軍工廠の記録 陸に沈んだ兵器工場」』八七会、1995年8月7日。
- ^ a b c d 八七会刊「八七会の思い出」リーフレット
- ^ 総務省> 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 豊川市における戦災の状況(愛知県)
- ^ a b 彦坂実『八七会六十年のあゆみ』八七会、2005-8-7 ※12頁の簡易冊子。
- ^ a b c 大島信雄『追補 豊川海軍共済病院の記録』大島信雄、1984年8月7日。
- ^ 辻豊次 編『ああ豊川女子挺身隊 : 8.7豊川海軍工廠の悲劇』甲陽書房、1963年。
- ^ a b 豊廠五期会編『あゝ吾れら見習健男児』五期会、1982年11月7日。
- ^ 豊田英男編『友魂』豊養会、1979年8月7日。
- ^ “豊川工廠大空襲 死者3000人超 地元医師が独自調査 従来の『2500人以上』説塗り替え 民間の犠牲 次々判明”. 中日新聞. (2005年8月13日)
- ^ a b “誕生から壊滅…戦後処理まで 『豊川海軍工廠の記録』出版 空襲50年を機に生存者”. 中日新聞. (1995年8月3日)
- ^ a b “舞踏松井さんらに豊川市の文化奨励賞”. 中日新聞. (1996年2月24日)
- ^ “海軍工廠の本を復刊 豊川 八七会、戦後の歩み加筆”. 中日新聞. (2015年6月29日)
- ^ 豊川市教育委員会「豊川海軍工廠関連年表」『豊川海軍工廠平和後年内残存遺構保存整備事業報告書』、豊川市教育委員会、2019年3月。
- ^ 豊川公園「平和の像由来記」碑文参照
- ^ “豊川海軍工廠の戦没者安らかに、慰霊碑を除幕”. 中日新聞. (1992年12月31日)
- ^ “通風筒”. 中日新聞. (1992年5月12日)
- ^ a b “戦後60年 8・7大空襲 2600人魏税 豊川海軍工廠慰霊祭 今年限り 高齢化で継続困難 取材団体苦渋の決断”. 中日新聞. (2005年8月5日)
- ^ 豊川市ホームページ:豊川海軍工廠平和公園開園
- ^ 豊川市ホームページ:市制施行76周年記念 被表彰者等一覧
- ^ 豊川市ホームページ:市制施行77周年記念 被表彰者等一覧