コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

倭文神社 (伊勢崎市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
倭文神社

拝殿
所在地 群馬県伊勢崎市東上之宮町甲380番地
位置 北緯36度18分39.9秒 東経139度9分5.1秒 / 北緯36.311083度 東経139.151417度 / 36.311083; 139.151417 (倭文神社)座標: 北緯36度18分39.9秒 東経139度9分5.1秒 / 北緯36.311083度 東経139.151417度 / 36.311083; 139.151417 (倭文神社)
主祭神 天羽槌雄命
社格 式内社(小)
上野国九宮
郷社
創建 (伝)第11代垂仁天皇3年
本殿の様式 流造
別名 上之宮
例祭 4月16日
主な神事 田遊祭(1月14日
地図
倭文神社の位置(群馬県内)
倭文神社
倭文神社
地図
テンプレートを表示
全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML
鳥居

倭文神社(しどりじんじゃ)は、群馬県伊勢崎市東上之宮町にある神社式内社上野国九宮旧社格郷社

利根川左岸に鎮座しており、右岸に鎮座する火雷神社(上野国八宮、下之宮)に対して「上之宮(かみのみや)」と称される。

祭神

[編集]

主祭神

  • 天羽槌雄命 (あめのはづちおのみこと)[1]
    「倭文神(しどりのかみ)」ともいわれる、機織・養蚕の神。

配祀神

歴史

[編集]

創建

[編集]
扁額

社伝では第11代垂仁天皇3年の創建というが、詳らかではない[2]

「しどり」とは「しずおり」の略で、天羽槌雄命は平絹を織る部民・倭文部(しどりべ)の氏神である[3]。これより、倭文部が当地に移住して天羽槌雄命を祀ったとする説がある[4]。また、『和名抄』には「那波郡委文郷」が見えるが、これを当地に見る説もある[4]

鎮座地の地名「上之宮」は当社に由来するとされ[5]、利根川を挟んで「下之宮」の火雷神社と対峙するが、中世の利根川変流まで両社は地続きであったという[6]

概史

[編集]

国史の初見は、『日本三代実録貞観元年(859年)の「正六位上委文神」を官社に列すという記事で[7]、同年に神階は従五位下に昇叙された[8]

延喜式神名帳では上野国那波郡に「倭文神社」と記載され、式内社に列している。この「佐位郡」は、佐波郡(明治に那波郡・佐位郡を合併)の前身にあたる。

長元3年(1030年)の『上野国交替実録帳』には「正三位委文明神社」と記されるとともに「向殿壱宇、間垣壱廻、鳥居壱基」と記載がある[3]。また『上野国神名帳』では、総社本では鎮守10社の9番目、一宮本では鎮守12社の11番目に「従一位倭文大明神」と記載されている[3]

南北朝時代成立の『神道集』では「九宮ヲハ那波ノ下ノ宮ニ、少智ノ大明神ト申ス」と記載があることから、当社は上野国の九宮であったと見られている(「下ノ宮」は誤記と見られる)[3]。また同集によると、当社の本地仏如意輪観音であった[3]

当社には祀官に真下氏がいたが、戦国時代の兵火で社殿は焼失、社家も離散したという[3]。その後江戸時代に入り、寛永年間(1624年-1644年)に慈眼寺が別当となり、慶安元年(1648年)に朱印地10石が与えられた[4]。社殿は享保12年(1727年)に再興されたが、慶応2年(1866年)に焼失した[4]

明治維新後、近代社格制度において郷社に列した[2]。また、大正14年(1925年)に神饌幣帛料供進神社に指定された[2]

神階

[編集]
  • 六国史
    • 貞観元年(859年)8月17日、正六位上、官社に列す (『日本三代実録』)[7] - 表記は「委文神」。
    • 貞観元年(859年)8月20日、正六位上から従五位下 (『日本三代実録』)[8] - 表記は「委文神」。
  • 六国史以後
    • 長元3年(1030年)、正三位 (『上野国交替実録帳』)[4] - 表記は「委文明神社」。
    • 従一位 (『上野国神名帳』)[4] - 表記はいずれも「倭文大明神」。

境内

[編集]

本殿は流造銅板葺で、明治13年(1880年)の再建[2]

祭事

[編集]
  • 歳旦祭 (1月1日)[9]
  • 田遊祭 (1月14日)
  • 祈念祭 (2月18日)
  • 服飾初祭・例大祭 (4月16日)
  • 秋祭 (10月17日)

上記のように、1月14日には田遊び(たあそび)として、田植えの予祝祭事が行われる[10]。祭事では、祭員はまず笹竹を振りご神歌を唱えながら、鳥居と拝殿の間を3往復する[10]。その後町内を巡り、神社に戻るともう一度鳥居前と拝殿の間を同様に3往復する[10]。この祭事では田植えの模擬所作こそ伴わないものの、そのご神歌は中世にまで遡るとされる[10]。この祭事は「倭文神社の田遊び」として、市の重要無形民俗文化財に指定されている[10]。ご神歌は次の通り[2]

御神歌
 エートウ、エートウ
 まえだの鷲(さぎ)が御代田(おしろだ)にぎろり
 きろぎろめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

 エートウ、エートウ
 乾(いぬい)のすまの掃部(かもん)の長者
 つじゅう十石ざらり
 ざらざらめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

文化財

[編集]

伊勢崎市指定文化財

[編集]
  • 重要文化財
    • 倭文神社の朱印状
      慶安元年(1648年)を初めとして9通の朱印状(所領給付の発給書)が伝わる[11]。平成4年2月24日指定[11]
  • 重要無形民俗文化財
    • 倭文神社の田遊び - 平成19年8月17日指定[10]

現地情報

[編集]

所在地

周辺

脚注

[編集]
  1. ^ 祭神の記載は、境内説明板による。
  2. ^ a b c d e 境内説明板。
  3. ^ a b c d e f 『中世諸国一宮制の基礎的研究』p. 283。
  4. ^ a b c d e f 『群馬県の地名』倭文神社項。
  5. ^ a b 『群馬県の地名』東上之宮村項。
  6. ^ 『群馬県の地名』佐波郡玉村町 下之宮村項
  7. ^ a b 『日本三代実録』貞観元年(859年)8月17日条。
  8. ^ a b 『日本三代実録』貞観元年(859年)8月20日条。
  9. ^ 祭事の記載は境内説明板による。
  10. ^ a b c d e f 倭文神社の田遊び(伊勢崎市ホームページ)。
  11. ^ a b 倭文神社の朱印状(伊勢崎市ホームページ)。

参考文献

[編集]
  • 境内説明板
  • 『日本歴史地名体系 群馬県の地名』(平凡社、1987年)伊勢崎市 東上之宮村項・倭文神社項
  • 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)p. 283