佐野基綱
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 暦仁元年4月9日(1238年5月24日)[1] |
別名 | 足利基綱、佐野太郎 |
戒名 | 安蔵寺殿風山源了大居士[1] |
墓所 | 清水大同山東明寺(廃寺。跡地は栃木県佐野市新吉水町の藤原秀郷公墳墓)[1] |
官位 | 佐野太郎大夫、安房守[1] |
氏族 | 藤姓足利氏、佐野氏 |
父母 | 父:戸矢子有綱 |
兄弟 |
基綱、園部行綱、高綱、阿曽沼広綱、 木村信綱、柏木有房、壬生親綱、 鍋山有利、那須綱吉、堀川基親、 白山賢厳、加賀局 |
子 | 国基、景綱 |
佐野 基綱(さの もとつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。下野国安蘇郡佐野庄に土着した佐野氏初代。通称は佐野太郎。または足利基綱とも呼ばれる。
略歴
[編集]本宗家である伯父・俊綱とその子・忠綱が、平家方の傘下として常陸国の志田先生義広(頼朝の叔父)と盟約したのに対し、庶家である基綱は父・有綱と共に早くから源氏に味方した。これはどちらか一方につく事を避け、一族の中で敵味方に別れることなるものの、源平二手に分かれて氏の存続を政略とした結果ともされる[2]。
寿永2年(1183年)2月23日、親族の小山朝政と結び、志田義広の軍勢と野木宮で戦い、これを撃破し本宗家の足利父子を敗走させた(野木宮合戦)。同年9月7日に、頼朝の厳命を受けた足利義兼・和田義茂らが渡良瀬川に陣営を取った。足利父子の譜代郎党の桐生六郎の裏切りによって、本宗家がついに滅亡した。以降の基綱は、鎌倉幕府の御家人として勢力を維持した[3]。文治3年(1187年)に、義経の武将・多田行綱(多田源氏)から、格別な弓矢を給わったという。文治5年(1189年)7〜9月、奥州合戦に参陣する。
承久3年(1222年)に、承久の乱に参戦し、その戦功で淡路国に所領を得たという[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 『田原族譜』第4版 山士家左伝
- ^ a b 栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会 2020, 佐野基綱 坂東武士図鑑.
- ^ 菅田山光得寺 2020, 阿曽沼 (浅沼) 一族 足利の昔 (5).
参考文献
[編集]- 山士家左伝 編『田原族譜』東明会、1883年9月。 NCID BA85281841 。
- “阿曽沼 (浅沼) 一族 足利の昔 (5)”. 菅田山光得寺公式ホームページ. 菅田山光得寺 (2020年9月21日). 2023年2月11日閲覧。
- “佐野基綱”. 坂東武士図鑑. 栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会 (2020年6月13日). 2024年2月3日閲覧。