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佐藤鋼次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

佐藤 鋼次郎(さとう こうじろう、1862年5月7日文久2年4月9日)- 1923年大正12年)9月18日)は、日本陸軍軍人軍事評論家陸士旧8期。最終階級は陸軍中将

長男の佐藤鉄馬(陸士24期)は陸軍砲兵大佐[1]

生涯

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尾張藩士・佐藤金左衛門の長男[1]陸軍士官学校旧8期)を卒業し、明治19年(1886年)に陸軍砲兵少尉に任官した[1]。陸士同期生には田中義一(第26代総理)、山梨半造(陸相)などがいる。

明治26年(1893年)から2年間、ドイツに留学[1]。以後は陸大卒業者と同等の扱い(「陸軍大学校#陸大卒業者と同等に扱われた者」を参照)。明治28年(1895年)に帰朝し、陸軍砲兵大尉・占領地総督部砲兵部副官として日清戦争に出征[1]。明治29年(1896年)から2年間、ドイツに駐在[1]

明治37年(1904年)に陸軍砲兵中佐・第3軍(司令官:乃木希典大将)攻城砲兵司令部員として日露戦争に出征し、旅順攻囲戦に参加[1]。旅順攻囲戦についての詳細な手記『日露戦争秘史:旅順を落とすまで』(あけぼの社、1924年)を遺している。同じく明治37年、陸軍砲兵大佐に進級して重砲兵第5連隊長[1]

旅順要塞参謀長下関要塞砲兵連隊長などを経て、明治45年(1912年)に陸軍少将に進級し、技術審査官清国駐屯軍司令官などを務めた[1]。大正3年(1914年)8月から大正6年(1917年)8月まで重砲兵監を務め、大正5年8月に陸軍中将に進級し、大正6年(1917年)12月に予備役に編入された[1]

予備役編入後は、軍事評論家として活動して12冊の著書を上梓した[2]。大正12年(1922年)9月1日の関東大震災の直後、同年9月18日に病死[2]享年62[2]。墓所は多磨霊園(2-1-4-13)

栄典

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位階
勲章

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 秦 2005, p. 70, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:佐藤鋼次郎
  2. ^ a b c 佐藤 1924, 故人の略伝
  3. ^ 『官報』第1035号「叙任」1886年12月10日。
  4. ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  5. ^ 『官報』第6445号「叙任及辞令」1904年12月22日。
  6. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  7. ^ 『官報』第789号「叙任及辞令」1915年3月23日。
  8. ^ 『官報』第1624号「叙任及辞令」1917年12月29日。
  9. ^ 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。

参考文献

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  • 佐藤鋼次郎『日露戦争秘史:旅順を落すまで』あけぼの社、1924年https://dl.ndl.go.jp/pid/942283/1/1 (国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。ISBN 4-13-030135-7 
  • 『日本人名大辞典』(講談社2001年