佐竹義遵
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佐竹 義遵(さたけ よししげ、1838年10月28日(天保9年9月11日) - 1901年(明治34年)3月7日)は、佐竹氏一門の佐竹西家17代当主。久保田藩大館第11代所預。男爵。
父は西家佐竹義茂。母は佐竹義術の娘武子。正室は岩城隆喜の七女仲子。子は佐竹正一。幼名隆之助。通称郎、大和。諱は義倫、義貴、義純。号は桂城。
経歴
[編集]大館城代佐竹義茂の子として生まれる。1864年(元治元年)、父の隠居により家督相続。慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、久保田藩が新政府軍につき、列藩同盟側の盛岡藩(南部家)に8月に大館城を攻撃され、支えきれずに8月22日城に火を放って退却した(大館城攻城戦)。8月28日には佐賀藩からの援軍を受けて反撃し、9月5日に盛岡藩軍が撤退したため大館を奪還した。1868年(慶応4年、明治元年)には新政府の命で盛岡藩の盛岡城受け取りを務める。1869年(明治2年)久保田羽前取締所権知事を拝命。1874年(明治7年)大蔵省に出仕する。1875年(明治8年)大蔵省を辞職して大館に帰る。1900年(明治33年)戊辰戦争での功績により男爵に叙される。1901年(明治34年)死去。享年64。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
参考文献
[編集]- 新人物往来社「三百藩家臣人名事典」
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 佐竹家(西家)初代 1900年 - 1901年 |
次代 佐竹正一 |