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佐竹義理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐竹義理
佐竹義理
時代 江戸時代後期(幕末) - 大正時代
生誕 安政5年9月4日1858年10月10日
死没 大正3年(1914年4月26日
改名 常丸(幼名)、義理
墓所 東京都板橋区小豆沢3丁目の総泉寺
幕府 江戸幕府
主君 明治天皇
出羽岩崎藩
氏族 相馬氏佐竹氏
父母 父:相馬充胤、母:不詳
養父:佐竹義諶
兄弟 相馬誠胤義理相馬順胤、花子、相馬胤紹
佐竹義堯の娘・鐶子
義立義種、総子、秀子ら
養子:安屋
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佐竹 義理(さたけ よしただ/よしさと)は、出羽国岩崎藩の第9代(最後)の藩主。佐竹壱岐守家9代当主。

略歴

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陸奥国相馬中村藩主・相馬充胤の三男に生まれる。

慶応2年(1866年)2月1日、岩崎藩(秋田新田藩)主・佐竹義諶との養子縁組の話が持ち込まれる。同年2月5日、中村を出発、同年2月13日、江戸の中村藩邸に到着。同年3月2日、義諶の養子となる。義理は義諶の甥に当たる。同年3月28日、江戸の秋田新田藩邸に移る。戊辰戦争では義諶と行動を共にした。そのため、戦後に恩賞として2000両を与えられた。明治2年(1869年)5月25日、義諶の隠居により家督を継ぐ。同年6月に版籍奉還知藩事となり、居館を岩崎村(湯沢市)に移して藩を岩崎藩と改めた。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官された。

明治9年(1876年)9月、司法省から法学生徒を命じられた。明治10年(1877年)1月、病気を理由に法学生徒を辞退する。明治17年(1884年)7月、子爵を授けられた。同年7月、学習院別則研修科を卒業。1890年(明治23年)7月10日、貴族院議員に就任し、1897年(明治30年)7月9日まで1期在任した[1]。また。国光生命保険会社社長となり、実業家として活躍した。大正3年(1914年)4月26日、57歳で死去。墓所は東京都板橋区小豆沢3丁目の総泉寺にある。

栄典

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系譜

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父母

子女

養女

脚注

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』43頁。
  2. ^ 『官報』第522号「叙任及辞令」1914年4月28日。
  3. ^ a b c d e 佐竹義種『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  4. ^ 佐竹義立『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  5. ^ 山中進「秋田県湯沢市における酒造業・製材木工業の地域的展開 (明治期~昭和初期)」『東北地理』第31巻第3号、東北地理学会、1979年、147-155頁、doi:10.5190/tga1948.31.147 

注釈

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  1. ^ 男爵佐竹義脩の養子となり襲爵[3]。秋田木工拓殖社長、國光生命保険副社長[4]。秋田木工拓殖は、秋田県湯沢曲木家具の東京販売所で、義立を社長に石川定辰守安滝次郎 らが役員を務めたが1929年に解散し、のち秋田木工となった[5]
  2. ^ 子爵。妻の小夜子は徳川慶喜の外孫で、侯爵蜂須賀正韶の娘(21歳没)[3]

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
佐竹家(岩崎家)初代
1884年 - 1914年
次代
佐竹義種