佐竹義理
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佐竹義理 | |
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 大正時代 |
生誕 | 安政5年9月4日(1858年10月10日) |
死没 | 大正3年(1914年)4月26日 |
改名 | 常丸(幼名)、義理 |
墓所 | 東京都板橋区小豆沢3丁目の総泉寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 出羽岩崎藩主 |
氏族 | 相馬氏→佐竹氏 |
父母 |
父:相馬充胤、母:不詳 養父:佐竹義諶 |
兄弟 | 相馬誠胤、義理、相馬順胤、花子、相馬胤紹室 |
妻 | 佐竹義堯の娘・鐶子 |
子 |
義立、義種、総子、秀子ら 養子:安屋 |
佐竹 義理(さたけ よしただ/よしさと)は、出羽国岩崎藩の第9代(最後)の藩主。佐竹壱岐守家9代当主。
略歴
[編集]慶応2年(1866年)2月1日、岩崎藩(秋田新田藩)主・佐竹義諶との養子縁組の話が持ち込まれる。同年2月5日、中村を出発、同年2月13日、江戸の中村藩邸に到着。同年3月2日、義諶の養子となる。義理は義諶の甥に当たる。同年3月28日、江戸の秋田新田藩邸に移る。戊辰戦争では義諶と行動を共にした。そのため、戦後に恩賞として2000両を与えられた。明治2年(1869年)5月25日、義諶の隠居により家督を継ぐ。同年6月に版籍奉還で知藩事となり、居館を岩崎村(湯沢市)に移して藩を岩崎藩と改めた。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官された。
明治9年(1876年)9月、司法省から法学生徒を命じられた。明治10年(1877年)1月、病気を理由に法学生徒を辞退する。明治17年(1884年)7月、子爵を授けられた。同年7月、学習院別則研修科を卒業。1890年(明治23年)7月10日、貴族院議員に就任し、1897年(明治30年)7月9日まで1期在任した[1]。また。国光生命保険会社社長となり、実業家として活躍した。大正3年(1914年)4月26日、57歳で死去。墓所は東京都板橋区小豆沢3丁目の総泉寺にある。
栄典
[編集]系譜
[編集]父母
妻
- 佐竹鐶子 - 侯爵佐竹義堯の娘
子女
養女
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 男爵佐竹義脩の養子となり襲爵[3]。秋田木工拓殖社長、國光生命保険副社長[4]。秋田木工拓殖は、秋田県湯沢の曲木家具の東京販売所で、義立を社長に石川定辰、守安滝次郎 らが役員を務めたが1929年に解散し、のち秋田木工となった[5]。
- ^ 子爵。妻の小夜子は徳川慶喜の外孫で、侯爵蜂須賀正韶の娘(21歳没)[3]
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 佐竹家(岩崎家)初代 1884年 - 1914年 |
次代 佐竹義種 |