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孫策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伯符から転送)
孫策
後漢
討逆将軍・会稽太守・呉侯
出生 熹平4年(175年)
揚州呉郡富春県
死去 建安5年4月4日[1]200年5月5日
拼音 Sūn Cè
伯符
諡号 長沙桓王
別名 猘児[2]、孫郎
主君 袁術→独立勢力
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孫 策[3](そん さく)は、中国後漢末期の武将。字は伯符(はくふ)。揚州呉郡富春県[4] の人。

若くして父の孫堅を亡くし、19歳のとき、袁術の将軍となった。袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵1000人余りをまとめて軍を編成し、劉繇を倒して勢力を拡大。その後、袁術の元から独立し大きく躍進するが、建安5年(200年)に刺客に襲撃された際に負った傷が原因で26歳で死亡。後継を孫権に定めた。後に孫権によって長沙王に封じられ、された。

生涯

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雌伏の時代

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父の孫堅が反乱の鎮圧に参加していた時期、孫策は寿春で母や弟たちと共に暮らしていた。孫策が十数歳の時に、江淮一帯で名声を得る。やがて名家出身の周瑜はその名を聞き、彼を訪ねてきた。中平6年(189年)、周瑜の招きによって母と弟たちを連れて廬江郡舒県に移住した(『江表伝』)。周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲り、家族同然の付き合いをしたという。同地の太守陸康に謁見したが、陸康が孫策に対して無礼な態度を取ったため、孫策は不満を抱いていた。

初平2年(191年)に父が劉表との戦いで死去した(襄陽の戦い)後、袁術の配下の遺族として次弟の孫権とともに袁術軍に従って移動した[5]。一方、従兄の孫賁は孫堅の軍勢を引き継ぎ、この後主家筋にあたる袁術の軍に吸収されていた。その後、広陵の江都に在住中に張紘と知り合い、自分の母と弟たちを彼に託している(『呉暦』)。

初平4年(193年)、寿春に袁術の旗下に入った。このとき、自分の旗下には、現地で知り合った呂範と、一族である孫河のみが付き従っていた。孫策は袁術の勧めで丹陽太守呉景を頼り挙兵する。初陣で丹陽の一揆の首領の祖郎に攻められ大敗したが、呉景の建言に従って孫河、呂範らと共に祖郎を攻撃し敗走させた。のち袁術の元に帰った。

興平元年(194年)、袁術に対し孫堅の軍の返還を求め、1000人強の兵を得る。数こそ少なかったが、その中には朱治黄蓋韓当程普といった、孫堅軍の中核を成した武将たちが揃っていた。また、馬日磾により上表され、懐義校尉に任命された。袁術は孫策を遣って陸康を攻めさせ、翌年には舒県を撃破し、廬江を得た。しかし袁術は戦功を認めず、側近である劉勲を廬江太守に任命した。

袁術軍の一角として異彩を放ち始めた孫策であったが、袁術からはその才覚ゆえに危険視された。九江太守、廬江太守の約束を反故にされながら、孫策は江東で自立する機会をうかがっていた(太守の約束を反故にされたとあるが、孫策は出仕したばかりである)。その間も孫策は人材を得るための時間を割くことは惜しまなかった。なかでも張昭張紘秦松、陳端といった知謀の士や、蔣欽周泰陳武凌操といった武勇を誇る猛者を得たことは、ますます孫策の人材層を豊かにした。

劉繇を倒す

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袁術と揚州刺史である劉繇は、揚州の支配をめぐって対立していた。補佐役であった朱治の勧めもあり、孫策は袁術に対し、劉繇と対峙している叔父の呉景の援軍に赴くことを申し出る。袁術は寡兵である孫策が江東で独立できるとは思っておらず、これを承諾した。歴陽で呉景の軍と合流した孫策は、ここで周瑜との再会を果たす。周瑜は孫策に兵力・情報を提供し、共に江東制覇に尽力した。孫策軍が歴陽に到達するまでに多くの兵が孫策軍に加わり、最初1000人強しかいなかった孫策軍は5千人以上に膨れ上がっていた。

興平2年(195年)、劉繇の部将の張英が守る当利口と于糜樊能が守る横江津を制圧して長江を渡り、劉繇が篭っていた牛渚の要塞も陥落させ、大量の食料や軍需物資を奪った。敗れた劉繇は曲阿に逃走した。更に孫策は劉繇を攻め、劉繇の部将の笮融薛礼と交戦し、薛礼が守る秣陵城(後の呉の都、建業)を制圧した。その間に牛渚を樊能・于糜に奪われたが、すぐに奪還した。再び長江を下って笮融を攻めたが、矢が太ももに当たり負傷し、後退した。孫策が死んだと思った笮融は部将の于茲に追撃させたが、孫策は伏兵を用いて于茲に大勝した。その後、孫策は堅固な笮融の軍営を避け、劉繇に服属する諸県を攻略していった。

あるとき、劉繇の部将である太史慈がただ1騎で孫策軍を偵察していると、韓当宋謙黄蓋ら13騎を従えた孫策に遭遇した。太史慈は刀を前に構え、孫策に正面から打ちかかった。孫策は太史慈の馬を刺し、太史慈がうなじに巻いていた手戟を掴み取ると、太史慈は孫策の兜を取った。このとき両軍の騎兵が殺到すると2人は軍とともに引き下がった。

やがて劉繇は拠点であった曲阿を捨てて逃亡する。主のいなくなった曲阿を落とした孫策は、ここを拠点として勢力の拡大を図った[6]。また、劉繇を失った太史慈は反乱軍を糾合し、丹陽太守と自称して孫策に対抗する。

袁術からの独立

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地盤を確保した孫策であったが、袁術との関係を維持するため、袁術から借り受けた兵のうち、叔父の呉景、従兄の孫賁の軍を返す。また、周瑜も一旦叔父である丹陽太守周尚のもとに帰った。周瑜は丹陽における孫策の支配をより強固なものにしていった。

建安元年(196年)、曲阿を始めとする丹陽郡を手中にした孫策は、呉郡、会稽郡の攻略に取り掛かる。呉郡太守であった許貢には朱治を派遣して勝利し、会稽太守であった王朗には当初苦戦したが孫静の策により勝利した。戦いに敗れた許貢は抵抗勢力であった厳虎のもとへ逃亡し、王朗は孫策に降伏した。また、独立勢力となっていた太史慈を打ち破り、自らの部下として迎えた。

建安2年(197年)、孫策の勢力が強大化するのを怖れた袁術は、一族の袁胤を丹陽太守に任じ、孫策への備えとしようとした。これに対し、孫策は武力をもって袁胤を追放し、ついに袁術に対して独立を宣言する。孫策の独立に応じ、一時袁術の配下にいた周瑜は魯粛を連れて孫策の元へ合流する。また、呉景、孫賁も袁術を見限り、孫策に従う事となった。

これに憤った袁術や陳瑀は丹陽郡の宋部一揆の首領の祖郎らを扇動して孫策を攻めさせたが、孫策は孫輔程普、呂範らとともに祖郎と戦い、激戦の末に祖郎を生け捕りにした。祖郎は孫策の部下となり、門下賊曹に任命された。

躍進

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江東の支配を宣言した孫策は、自らの体制を整えるべく人材登用を積極的に行った。その中には呂蒙や、元は王朗配下であった虞翻も含まれていた。また、自ら会稽太守を称するとともに、江東の周辺郡の太守を任命した。

孫策は電撃的に江東一帯を制覇したが、その苛烈な勢いがゆえに怨恨を抱かれ、各地に根強い抵抗勢力を抱えることになった。江東に抵抗勢力を抱える限り中原への進出は実現できないため、孫策は抵抗勢力の粛清に乗り出した。これにより厳虎をはじめとして、抵抗勢力である江東各地の地元豪族王晟・鄒他・銭銅らその一族、地方宗教勢力が粛清された。このとき、かつて呉郡太守であった許貢は「孫策の勢いは項羽に似る」と朝廷に上奏しようとしたが、これを知った孫策は怒り、粛清対象として許貢を殺害した。

やがて袁術が皇帝を僭称し始めると、孫策は反袁術の姿勢を鮮明にするため、献帝を擁する曹操に近づく。根強い抵抗勢力が多く存在する江東を支配するためにも朝廷の権威が必要であった。しかし両者の関係は微妙なものであり、袁術の死を契機に崩れてしまうことになる。

建安4年(199年)、袁術が失意のうちに死去すると、旧袁術軍はこぞって劉勲のもとに身を寄せることになった。滅びたとはいえ多勢の袁術残党は劉勲の南北に割拠する気鋭の孫策と曹操には魅力的であり、双方ともこの兵力を自軍に組み込むべく工作を謀った。

孫策は劉勲に対して「上繚には宗教勢力が闊歩しており、それらへの対応に困っています。協力して討ち取りましょう。もし討ち取る事ができれば、宗教勢力の兵力も手にする事ができるでしょう」といった内容のへりくだった手紙を送った。それ以前、劉曄は劉勲のもとへ兵を送り、その客となっていた。劉曄は劉勲に対して孫策の手紙の意図と危険性を説明したが、劉勲は聞き入れず、孫策を信用して上綜へ攻め入った。孫策はこれを機に留守となった劉勲の本拠である皖に急行してこれを陥落させ、旧袁術軍ならびに楽隊や袁術の妻妾、子女などを一挙に手中に収めることに成功した。後に自らのとした橋公の娘大喬や、同じく橋公の娘で周瑜の妻となる小喬、他にも孫権の妻となる歩夫人袁夫人もこの際に捕虜にしている。

進退極まった劉勲は西塞山に陣を敷き、夏口の黄祖に助けを求めた。黄祖は息子の黄射を援軍に立てて西塞山に向かわせたが、孫策はその救援が到着する前に早々と西塞山を陥落させた。劉勲は少数の部下と共に曹操のもとへ逃げ落ち、孫策は廬江を手に入れた。

大軍を手中にした孫策は、次の敵として劉表配下の黄祖に攻撃を向ける。黄祖は父・孫堅の仇であるため、孫策が揚州・廬江を手にしたことで目と鼻の先の勢力同士にもなった両者の対立は必至であった。黄祖は劉表に援軍を求め、劉表からは劉虎らが増援として送られた。黄祖ははじめこれらの増援組を押し出して自らは後方支援する形で戦ったが、孫策軍は先鋒の劉虎・韓晞をすぐに破って斬首したため、軍を後退させて夏口において専守の体勢をとった。孫策は一時退却し、まずは豫章を平定することを先決とした。後に、黄祖への攻撃は年単位で執拗に続けられ、建安13年(208年)、ついに孫権の代に父の悔恨が雪がれることになる。

孫策はまず虞翻を豫章太守華歆の元に送って投降させた。豫章南部の廬陵の太守を名乗っていた僮芝には新たな太守を派遣して対立させ、僮芝が病にかかった報を聞くと周瑜を送ってこれを壊滅させた。また、韓当蔣欽周泰らを県令に任命して抵抗勢力鎮圧に回らせ、呂範を鄱陽、周瑜を巴丘に派遣して抵抗勢力を鎮圧した。劉表の抑えとしては太史慈を豫章郡西部の都尉につけた。孫策はここに江東の五郡である江南の大部分をその支配下に治めた。

突然の死

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曹操は孫策懐柔のため、自分の姪を孫匡に嫁がせ、孫賁の娘を息子の嫁として迎えていた。しかし建安5年(200年)、孫策は曹操の主力が北の袁紹に向かっている隙を狙い、曹操の本拠である許都攻略を計画する[7]。ただし裴松之孫盛によれば、孫策の本当の標的は許都ではなく、長江・淮水流域で非常に人望が厚くかねてから江南併合の野望を抱いていた陳登だったという。しかし孫策が単騎で外出した日、長江のほとりに潜伏していた許貢の客人3人と遭遇し、孫策は1人を射殺したが、残り2人の放った矢の一本が頬を貫いた。『三国志』討逆伝によれば、一族の陳瑀が揚州に侵攻した件で以前より孫策と対立していた陳登が報復として厳虎や許貢の残党を扇動し孫策の背後を突かせようとし、孫策はそれに怒り陳登討伐に向かったが途上で狩りの最中に許貢の残党に襲われた、とある。

重傷を負い死期を悟った孫策は孫権を後継に、その補佐役として張昭を指名し、程なく没した。享年26。死に際して、張昭ら幕臣には孫権の補佐を頼み、孫権には「兵を率いて戦場に駆け、天下の争いに与するような事においてはお前は俺には及ばないが、才能ある者を用い、江東を保っていく事については、お前の方が上だ」と、臣下の言を重んじ江東を固く事に意を注ぐよう言い残したとされる。

黄龍元年(229年)、皇帝となった孫権により、長沙桓王諡号を送られた。孫権は建業にある朱雀橋の南に孫策の廟を建てた。

孫堅が帝号であるのに対して孫策が王号である理由は不明であるが、ともあれ孫権は孫策を懐かしんでいるようで、皇太子である孫和を派遣して桓王廟に参籠させたり[8]赤烏3年(240年)に孫策の墓の再度整備の措置を施したりした。碑石には「大呉長沙桓王之墓 赤烏三年」との文字が刻まれている[9][10]

人物

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おしゃれや笑話を好み闊達な性格であったと言われる。

評価

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郭嘉は「孫策は新たに江東を併呑したばかりですが、誅殺されたのはみな英雄豪傑であり、人の死力を得られる者たちでありました。しかし孫策は軽率で備えも無く、百万の軍兵があろうとも原野を独りで歩いているのと異なりません。もし刺客を潜ませていたならば、ただ一人を敵とするだけであります。こうしたことから私が観るに、必ずや匹夫の手で死ぬことでしょう」と評している。

陳寿は「孫策は傑出した英気を具え、その勇猛さと鋭敏さは並ぶ者がないほどであり、優れた人物を登用して用い、志は中国全土を圧倒するほどだった。しかし、孫策は軽佻果躁(=軽弾みで思慮が足りぬ)だったので、身を滅ぼしてしまった」と評している。

家系図

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孫呉王朝系図】(編集
孫鍾
 
孫羌
 
孫賁
 
孫鄰
 
孫震
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫輔
 
 
 
 
 
 
孫歆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫堅
 
孫策
 
孫紹
 
孫奉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)大帝孫権
 
宣太子孫登
 
孫英
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫慮
 
 
(4)末帝孫晧
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)文帝孫和
 
 
孫謙
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫俊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
魯王孫覇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉王孫奮
 
 
豫章王孫𩅦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(3)景帝孫休
 
 
汝南王孫𩃙
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(2)廃帝孫亮
 
 
梁王孫壾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫翊
 
孫松
 
 
陳王孫𠅨
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫匡
 
孫泰
 
孫秀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫朗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫静
 
孫暠
 
孫綽
 
孫綝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫超
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫恭
 
孫峻
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫瑜
 
孫弥ほか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫皎
 
孫儀ほか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫奐
 
孫壱ほか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孫謙
 
 
 
 
 
 
 
 
 


親族

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この他、何人かの女子がおり、権によって一人は顧邵に嫁ぎ、一人は陸遜に嫁ぎ、もう一人は朱紀(朱治の次子)に嫁いだ。

三国志演義に描かれる孫策

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小説『三国志演義』では、「性烈如火」に気性が激しい性格として描かれている。初めは正史の孫賁の役割を担っており、史実より早い時点で初陣を迎える。襄陽の戦いの時に初登場し、弓矢で陳生を射殺した。父の死後はその軍勢を引き継ぎ、父の棺を故郷に送り届けると、袁術配下になった。

孫策は伝国の玉璽を袁術に渡して独立の為の兵を借り受け(正史では、袁術が皇帝を僭称する際、呉夫人を拘留して伝国璽を奪ったという)、劉繇との交戦する際に、劉繇の部将の樊能は孫策の大喝に驚いて落馬死してしまう。なお、孫策は于糜を腕で抱えたまま自陣に戻るが、すでに窒息死していることになっている。その大声と怪力であったため、「小覇王」と呼ばれている[12]。劉繇軍の太史慈と互角の一騎討ちを演じる。

最期については『捜神記』の記述をもとに、呉に現れた道士于吉により呪い殺されるという設定になっている。于吉に民の人望が集まることを憎み、妬んだ孫策は、于吉に難題を押しつけるが、于吉はそれをことごとくこなしていったため、言いがかりをつけて彼を殺害してしまう。その後、孫策は厳虎の残党に襲われ負傷するが、たいした傷ではなかった。しかし、死んだはずの于吉がその傷を悪化させるように毎晩孫策の前に現れて、ついにその傷が深くなり危篤になったとしている。

脚注

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  1. ^ 『三国志』孫策伝注『志林』
  2. ^ 勇猛なる子犬の意味。『呉録』によると、曹公(曹操)聞策平定江南,意甚難之,常呼「猘兒難與爭鋒也」
  3. ^ 簡体字の表記:孙策拼音sūn cèラテン文字への翻字:Sun Ce。
  4. ^ 現在の浙江省杭州市富陽区
  5. ^ 『後漢紀』巻二十七より
  6. ^ 『三国志演義』などでは、孫策はこれ以降「小覇王」または「江東の麒麟児」と呼ばれるようになったとされる。
  7. ^ 時期は不明だが、『三国志』呂布伝の注に引く『先賢行状』では、孫策は徐州に攻め込んだが、陳登は匡奇に籠り、孫策軍を撃退したとしている。
  8. ^ 『建康実録』『資治通鑑』より
  9. ^ には孫策の墓が発見されると 、詩人である陸仁らは『桓王墓』など多くの詩を作ってその様子を記録しているという。
  10. ^ 『江南通志』巻三十八に引く『三庚志』より
  11. ^ 『三国志演義』では大と呼ばれる。なお『三国志』には正妻であったとは記されていない。
  12. ^ 「覇王」とは項羽の称である、力持ちで有名になる。

参考文献

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