伊東祐麿
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伊東 祐麿 | |
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生誕 | 1832年9月19日 |
死没 | 1906年2月26日(73歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1870年 - 1899年 |
最終階級 | 海軍中将 |
伊東 祐麿(いとう すけまろ、1832年9月19日(天保3年8月25日) - 1906年(明治39年)2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家、茶人。最終階級は海軍中将。位階・勲等・爵位は正二位勲一等子爵。元老院議官、貴族院議員。
経歴
[編集]薩摩藩士・伊東祐典の次男として生れる。薩摩藩砲隊長を経て、1868年に「春日丸」副長、さらに「乾行」艦長となる。
1870年、新政府に出仕し海軍少佐任官。「龍驤」副長、同艦長、中艦隊指揮官などを経て、1872年、海軍少将に進級。佐賀の乱では佐賀征討参軍として出征した。東部指揮官、東海鎮守府司令長官仰付を歴任。西南戦争では海軍艦隊指揮官として出征し、1878年11月、海軍中将となる。海軍省軍務局長、海軍兵学校長などを歴任し、1899年4月、後備役に編入された。1905年10月19日に退役した[1]。
茶人としても知られ、玄遠と号した。1898年(明治31年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・石黒忠悳(况翁)・伊藤雋吉(宗幽)・岩見鑑造(葎叟)・岡崎惟素(淵冲)・金澤三右衛門(蒼夫)・戸塚文海(市隠)・東胤城(素雲)・東久世通禧(古帆)・久松勝成(忍叟)・松浦恒(無塵)・三田葆光(櫨園)・三井高弘(松籟)・安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)、高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。
その他、元老院議官、貴族院子爵議員(1890年7月10日就任[2])を務めた。1884年7月、子爵を叙爵し華族となる。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[3]。
栄典
[編集]- 1872年(明治5年)4月15日 – 正六位[4]
- 1873年(明治6年)6月25日 – 正五位[5]
- 1884年(明治17年)7月7日 - 子爵[6]
- 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[7]
- 1887年(明治20年)11月2日 - 勲一等旭日大綬章[8]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
- 1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[10]
- 1906年(明治39年)2月26日 -正二位[11]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第6694号、明治38年10月20日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』35頁。
- ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
- ^ 「申3号大日記 式部寮達 赤松大丞外5名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09110142400
- ^ 「甲1番大日記 式部寮達 中牟田少将外1名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09111306400
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第1306号「叙任及辞令」1887年11月4日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
- ^ 『官報』第6797号「叙任及辞令」1906年2月28日。
- ^ 1919年10月24日死去。『官報』第2175号、大正8年11月4日。
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 伊東(祐麿)家初代 1884年 - 1906年 |
次代 伊東二郎丸 |