愛媛師範学校
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(伊予師範学校から転送)
愛媛師範学校 (えひめしはんがっこう) は新制愛媛大学教育学部の前身の一つとなった師範学校である。
沿革
[編集]愛媛県立期
[編集]旧旧・愛媛県師範学校、愛媛県伊予師範学校
[編集]- 1876年8月21日: 愛媛県師範学校設立。
- 1876年9月7日: 開校式挙行。
- 1876年11月10日: 愛媛県伊予師範学校と改称。
- 1877年2月: 附属小学校を設置 (1879年、一時閉鎖)。
- 1877年3月: 愛媛県内各所に講習所を設置 (現職教員の再教育機関)。
旧・愛媛県師範学校
[編集]- 1877年11月15日: 愛媛県讃岐師範学校を吸収し、愛媛県師範学校と改称。
- 従来の本科を漸成科と改称 (2年制)。急成科 (半年制) を新設。
- 1879年5月: 高等師範生 (3年制)・師範生 (1年制) に改編。
- 1882年9月29日: 師範学校教則大綱に準拠。
- 初等師範学科 (1年)・中等師範学科 (1年半)・高等師範学科 (3年) を設置。
- 1883年10月: 附属小学校を再開設。
- 1886年5月: 附属幼稚園仮開設 (1897年3月廃止)。
愛媛県尋常師範学校
[編集]- 1886年11月27日: 師範学校令により愛媛県尋常師範学校と改称 (本科4年制)。
- 1888年7月: 同窓会を結成。
- 1889年10月1日: 香川県に香川県尋常師範学校設立。
- 1888年12月に現・香川県が愛媛県から分離したことによる。
- 1890年9月: 松山市木屋町 (現・若草町) の新築校舎に移転。
愛媛県師範学校
[編集]- 1900年2月27日: 師範教育令により愛媛県師範学校と改称。
- 本科・小学校教員講習科・幼稚園保姆講習科を設置。
- 1900年4月: 女子部を再開 (3年制)。
- 1905年: 生徒によるストライキ事件発生。
- 教諭転任に絡み校長排斥運動に発展。7月10日、生徒ら無期停学処分。10月1日、生徒ら復校。
- 1908年2月13日: 師範学校規程に準拠し、学則改正。
- 1910年4月: 女子部を愛媛県女子師範学校として分離。
- 1912年: 校歌制定。『行方も知らず流れ去る』 (鈴木重太郎 作詞作曲)。
- 1912年11月11日: 「修養会事件」 発生。
- 本科4年生、夜間に 「修養会」 と称して不良生徒に鉄拳制裁。29名停学処分。
- 1925年7月31日: 予備科を廃止。本科第一部を 5年制に延長 (高小卒対象に変更)。
- 1926年5月25日: 専攻科 (1年制) を設置。
- 1930年: 郷土館を開設。
- 1931年4月: 本科第二部を 2年制に延長 (第二部は完全私費制に)。
旧・愛媛県女子師範学校、愛媛県女子師範学校
[編集]- 1877年4月11日: 愛媛県讃岐師範学校 (高松) に女子師範学科を設置 (満14歳以上対象)。
- 1877年11月15日: 合併により愛媛県師範学校女子師範学科となる (第四大区 [香川] 講習所内)。
- 1878年1月: 愛媛県女子師範学校として独立。
- 1879年5月: 生徒僅少につき廃校。
- 1887年6月: 愛媛県尋常師範学校 (松山) に女子部を設置 (3年制)。
- 1891年12月: 女子部廃止。
- 1899年1月: 愛媛県尋常師範学校、女子専科講習生を募集 (講習期間3ヶ月)。
- 1900年4月1日: 愛媛県師範学校女子部再開 (3年制)。
- 1908年2月: 本科第一部を 4年制に延長。本科第二部を新設。
- 1909年7月14日: 愛媛県女子師範学校設置認可。
- 1910年4月1日: 愛媛県女子師範学校開校 (愛媛県師範学校から女子部が独立)。
- 1910年10月: 温泉郡三津浜町 (現・松山市須賀町) の新築校舎に移転。
- 1911年3月: 附属小学校を設置。
- 1912年3月: 附属幼稚園・小学校教員講習科 (2年制、1930年廃止) を設置。
- 1918年3月: 校歌制定。『白帆は行き交う』 (籏持匡 作詞)。
- 1919年4月: 本科第二部を 1年制に短縮。
- 1921年4月: 裁縫講習科を設置 (1年制、1931年廃止)。
- 1925年7月: 予備科を廃止、本科第一部を 5年制に延長 (高小卒対象に変更)。
- 1926年5月: 専攻科 (1年制) を設置。
官立期
[編集]愛媛師範学校
[編集]- 1943年4月1日: 愛媛県師範学校・愛媛県女子師範学校を統合し、官立愛媛師範学校設置。
- 1945年7月26日: 空襲で男子部・同附属国民学校全焼。
- 1945年9月: 女子部校舎等に分散して授業再開。
- 1946年2月: 予科を 3年制に延長。
- 1947年: 男子部、松山市城北 (現・文京町) の旧陸軍歩兵第22連隊練兵場跡に移転。
- 1948年: 女子部も城北地区に移転。
- 1949年5月31日: 新制愛媛大学発足。
- 青師と共に教育学部の母体として包括された。
- 1949年7月: 松山市より産業復興大博覧会 (同年3月-5月、城北地区で開催) の元展示棟が引き渡される。
- 1950年11月: 旧女子部校地を警察予備隊に転用。
- 1951年3月: 旧制愛媛師範学校、廃止。
歴代校長
[編集]- 愛媛県師範学校(前身諸校を含む)
- 松本英忠:1876年8月 - 1877年10月
- 檜垣直右:1877年11月 - 1883年7月
- 山縣悌三郎:1883年7月 - 1883年9月
- 岡本則録:1883年9月 - 1885年9月
- 佐竹義和:1885年9月 - 1886年3月
- 武田安之助:1886年3月 - 1886年7月
- 佐竹義和:1886年7月 - 1887年8月
- 遠藤宗義:1887年8月16日[2] - 1889年12月6日[3]
- 町田則文:1889年12月 - 1891年5月23日
- 林吾一:1891年5月27日 - 1899年6月28日
- 新原俊秀:1899年6月28日 - 1901年2月9日
- 佐野川泰彦:1901年2月9日 - 1905年8月5日
- 大石和太郎:1905年8月24日 - 1908年4月14日
- 伊野宮茂長:1908年5月2日 - 1913年3月31日
- 山路一遊:1913年3月31日 - 1923年3月
- 浅賀辰次郎:1923年3月31日[4] - 1927年5月
- 佐伯千尋:1927年5月 - 1935年3月
- 宮澤健作:1935年3月 - 1939年8月
- 林伝次:1939年9月 - 1943年3月
- 愛媛県女子師範学校
- 塩谷伴造 [5]:1910年4月23日 - 1913年10月23日
- 太田藤一郎:1913年10月23日 - 1920年4月
- 豊田五郎:1920年4月 - 1930年9月
- 三神竹三郎:1930年9月 - 1935年3月
- 西岡源七:1935年3月 - 1941年4月
- 武政房吉:1941年4月 - 1943年4月
- 官立愛媛師範学校
- 佐伯千尋:1943年4月1日[6] - 1945年4月
- 岩本茂一:1945年4月1日 - 1945年11月24日[7]
- 山本隆一:1945年11月24日[7] - 1948年9月6日
- 井上宮久:1948年9月6日 - 1951年3月
- 新制愛媛大学教育学部 初代学部長
校地の変遷と継承
[編集]- 愛媛師範学校男子部
前身の愛媛県師範学校から引き継いだ松山市木屋町 (現・若草町4丁目) の校地を使用した。1945年7月の空襲で校舎を失い、同年9月の授業再開時は、空襲の被害を受けなかった女子部校舎や太山寺等を使用した。1947年、市内城北 (現・文京町) の旧陸軍歩兵第22連隊練兵場跡に教室2棟を設置し、女子部校舎との2箇所で分散授業を行った (女子部も1950年までに城北地区に移転完了した)。城北校地は後身の新制愛媛大学教育学部に継承された。現在、愛媛大学城北キャンパスには医学部・農学部を除く法文学部・教育学部・工学部・理学部が集中している。
旧木屋町校地の跡地は、現在は松山若草合同庁舎となっており、「愛媛教育草創之地」 碑が設置されている。
- 愛媛師範学校女子部
前身の愛媛県女子師範学校から引き継いだ松山市三津西須賀町 (旧・温泉郡三津浜町字梅田町新立小松原、現・松山市須賀町) の校地を使用した。1945年7月の空襲では被害を受けなかったが、第二次世界大戦終戦後、校舎を焼失した男子部が移転して来たため、同居状態となった。1947年に男子部が城北地区に一部移転したのに続いて、1948年から女子部も城北地区へ移転することになった。城北への移転は 1950年までに完了し、三津校地は同年11月に警察予備隊に引き渡された。現在、旧三津校地の跡は、松山西警察署となっている。
著名な出身者
[編集]- 浅野長道 - 教育者、松山市長
- 泉敬太郎 - 教育者、新居浜市長
- 大野作太郎 - 教育者、地質学者
- 大森貞資 - 教育者、衆議院議員
- 岡武男 - 教育者、愛媛県北宇和郡松野町長
- 岡田温 - 教育者、農業技師、衆議院議員
- 亀岡謙太郎 - 教育者、愛媛県喜多郡天神村長
- 簡野道明 - 教育者、漢文学者
- 合田福太郎 - 教育者、衆議院議員、愛媛県宇摩郡土居村長
- 河野清丸 - 教育者、教育学者
- 澤田大暁 - 教育者、書家
- 重松信弘 - 教育者、国文学者、愛媛大学名誉教授
- 清家吉次郎 - 教育者、衆議院議員
- 曽根松太郎 - 教育者、出版業
- 瀧庸 - 教育者、生物学者
- 夏井保四郎 - 教育者、弁護士、衆議院議員、松山電気軌道・海南新聞社長
- 原田改三 - 教育者、北条市長
- 八木彩霞 - 教育者、画家
- 八木繁一 - 教育者、植物研究家、オキチモズク、ツバキカンザクラを発見
- 湯山勇 - 教育者、衆議院議員、参議院議員
- 渡部抱朴子 - 教育者、俳人、書家
教員
[編集]関連文献
[編集]脚注
[編集]- ^ 池田洋三 『わすれかけの街 松山戦前』 愛媛新聞社、1975年、139頁
- ^ 国立公文書館「富山県属三宅五郎三郎外一名尋常師範学校長ニ被任ノ件」履歴書付、明治20年8月16日。
- ^ 国立公文書館「愛媛県尋常師範学校長遠藤宗義依願免官ノ件」明治22年12月6日。なお、国立公文書館デジタルアーカイブでは「愛知県」と誤入力されているので注意。
- ^ 『官報』第3199号、大正12年4月2日。
- ^ 「伊造」との表記もあるが、『官報』第8049号(明治43年4月25日)、『広島大学二十五年史』では「伴造」である。
- ^ 『官報』第4865号、昭和18年4月2日。
- ^ a b 『官報』第5664号、昭和20年11月28日。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 愛媛大学教育学部 - 後身校
- 愛媛大学教育学部同窓会
- 松山史跡散策コース: 松山札之辻~お堀巡りの散策 - まつやま散歩道より
- - 松山若草合同庁舎 (北堀端の北側) 内の 「愛媛教育草創之地」 碑についても