井上仁郎
井上 仁郎(いのうえ にろう、1864年6月27日(元治元年5月24日[1]) - 1920年(大正9年)1月11日[1][注 1])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]伊予国喜多郡新谷(現・愛媛県大洲市)の新谷藩士の家に生まれる[2]。小学校時代の友人に井上要(のちの実業家、衆議院議員)がいた[3]。陸軍士官学校(旧7期)[1]に入り、1885年(明治18年)6月、陸軍工兵少尉任官[4]。同期には宇都宮太郎・島川文八郎両大将や柴勝三郎中将らがいた。1887年(明治20年)に陸士を卒業。軍用鉄道研究のためドイツに派遣された[2]。
日清戦争時には寺内正毅少将の副官を務めた[2]。1904年(明治37年)3月、鉄道大隊長に就任し[5]、日露戦争では大本営臨時軍用鉄道監督部長となった[1]。1905年(明治38年)3月、工兵大佐に昇進[5]。1906年(明治39年)7月、陸軍省軍務局工兵課長に異動[5]。1910年(明治43年)11月、陸軍少将に進み交通兵旅団長となる[1][5]。1914年(大正3年)航空学校視察のため渡欧[2]。1915年(大正4年)1月、交通兵旅団が交通兵団に改編され、引き続き兵団長を務めた[1][5]。同年2月、陸軍中将に進級[1][5]。1916年(大正5年)4月、臨時軍用気球研究会長を兼務した[1][5]。
1916年8月、下関要塞司令官に就任[1][5]。1917年(大正6年)8月、待命となり、同年12月、予備役に編入された[1][5]。
臨時軍用気球研究会において、1909年(明治42年)8月に委員(幹事役)、1916年4月に会長をそれぞれ兼務し、陸軍航空の草創期に貢献した[6]。
栄典
[編集]- 位階
- 1905年(明治38年)4月7日 - 従五位[7]
- 1910年(明治43年)5月21日 - 正五位[8]
- 1915年(大正4年)3月10日 - 従四位[9]
- 1917年(大正6年)12月28日 - 正四位[10]
- 勲章等
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』71頁では、大正8年1月1日歿。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』94-95頁。
- ^ a b c d 『改訂増補 大洲市誌』 上巻、756-757頁。
- ^ 『井上要翁伝』 30-31頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』70-71頁。
- ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』71頁。
- ^ 『陸軍航空の軍備と運用(1)』16-21頁。
- ^ 『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
- ^ 『官報』第8073号「叙任及辞令」1910年5月23日。
- ^ 『官報』第780号「敍任及辞令」1915年3月11日。
- ^ 『官報』第1624号「叙任及辞令」1917年12月29日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第924号「叙任及辞令」1915年8月30日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。