島川文八郎
島川 文八郎(しまかわ ぶんはちろう、元治元年3月10日(1864年4月15日) - 大正10年(1921年)7月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍技術審査部長・陸軍技術本部長・陸軍省兵器局長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功三級に至る。
人物・来歴
[編集]津藩士・島川宗政の八男として生まれ、1879年(明治12年)4月、陸軍幼年学校に入校する。1882年(明治15年)8月、陸軍士官学校生徒となり、1885年(明治18年)6月には陸軍砲兵少尉に任官・山砲兵第3大隊附を命ぜられた。士官生徒第7期の同期には宇都宮太郎大将や柴勝三郎・竹下平作両中将らがいる。
1887年(明治20年)7月、士官学校を卒業。この時、中尉に進級し、砲兵第1連隊附に移る。1888年(明治21年)1月からは陸軍砲兵射的学校教官を務め、1890年(明治23年)11月の大尉進級を経て1891年(明治24年)3月にはベルギーへと留学した。1892年(明治25年)12月からはフランスに渡り、引き続き留学をする。
1893年(明治26年)12月に帰国し、1894年(明治27年)3月、東京砲兵工廠板橋火薬製造所長に就任した。1895年(明治28年)4月には少佐に進級し、1898年(明治31年)7月からヨーロッパに派遣された。1899年(明治32年)5月に再び帰国し、同年12月、中佐に進級。1903年(明治36年)5月には大佐へと進み、野砲兵第3連隊長に就任した。
1904年(明治37年)4月、日露戦争に出征。戦役から戻った島川は1905年(明治38年)5月、陸軍技術審査部審査官を補され、先の戦功から1906年(明治39年)4月1日、功三級金鵄勲章を受章する。1907年(明治40年)11月、陸軍省軍務局砲兵課長に就任し、1908年(明治41年)12月21日には新設された陸軍省兵器局の局長心得を命ぜられる。
1909年(明治42年)1月28日、陸軍少将進級と共に正式な局長に進む。1913年(大正2年)7月3日、陸軍技術審査部長へと進み、1914年(大正3年)5月には陸軍中将に進級する。1919年(大正8年)4月、陸軍技術本部長を拝命し、技術将校の頂点に輝いた。1919年(大正8年)11月、陸軍大将進級と共に待命となり、1920年(大正9年)3月には予備役となった。同年11月1日、勲一等旭日大綬章受章。1921年(大正10年)7月15日逝去。墓所は青山霊園(1イ16-16)。
栄典
[編集]- 位階
- 1885年(明治18年)9月16日 - 正八位[1]
- 1890年(明治23年)1月17日 - 従七位[2]
- 1891年(明治24年)12月28日 - 正七位[3]
- 1895年(明治28年)9月20日 - 従六位[4]
- 1903年(明治36年)7月31日 - 従五位[5]
- 1909年(明治42年)3月20日 - 正五位[6]
- 1914年(大正3年)4月30日 - 従四位[7]
- 1919年(大正8年)6月10日 - 正四位[8]
- 1920年(大正9年)3月20日 - 従三位[9]
- 1921年(大正10年)7月12日 - 正三位[10]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・勲三等旭日中綬章・明治三十七八年従軍記章[13]
- 1914年(大正3年)11月30日 - 勲二等瑞宝章[14]
- 1915年(大正4年)
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日大綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[17]
- 外国勲章等佩用允許
親族
[編集]- 三男 三村征雄(数学者)
- 六男 島川治雄(陸軍中佐)
脚注
[編集]- ^ 『官報』第707号「叙任」1885年11月7日。
- ^ 『官報』第1970号「叙任及辞令」1890年1月25日。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
- ^ 『官報』第6025号「叙任及辞令」1903年8月1日。
- ^ 『官報』第7718号「叙任及辞令」1909年3月22日。
- ^ 『官報』第525号「叙任及辞令」1914年5月1日。
- ^ 『官報』第2055号「叙任及辞令」1919年6月11日。
- ^ 『官報』第2288号「叙任及辞令」1920年3月22日。
- ^ 『官報』第2689号「叙任及辞令」1921年7月18日。
- ^ 『官報』第3695号「叙任及辞令」1895年10月22日。
- ^ 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月11日。
- ^ 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
- ^ 『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』第5488号「叙任及辞令」1901年10月16日。
- ^ 『官報』第5778号「叙任及辞令」1902年10月6日。