二田是儀 (初代)
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初代 二田 是儀(ふただ これのり、1851年1月20日(嘉永3年12月19日[1][2])- 1910年(明治43年)1月23日[1][3][注釈 1])は、明治期の開拓者、農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・門間、初名・謹治[1][2]。
経歴
[編集]出羽国秋田郡飯塚村(秋田県[3]南秋田郡飯田川村[4]、飯田川町、昭和町、飯田川町〔第二次〕を経て現潟上市飯田川飯塚)で、開拓者・門間祐蔵[1][2](のち二田是雄[1][2])の長男として生まれた[1]。1867年(慶応3年)父と共に秋田郡天王村浜中[1](向船越村、典農村、南秋田郡天王村、天王町二田を経て現:潟上市天王二田)に移り開拓に従事[1][2]。二田に改姓し開拓の地を二田村と名付けた[1][2]。1874年(明治7年)に家督を相続[2]。その後上京して、林靏梁(鶴梁)、副島種臣、根本通明らに師事し漢籍を修めた[1][2]。
1883年(明治16年)に帰郷[2]。開拓地は水田150ヘクタール、植林290ヘクタールにもなり、耕地の無償譲渡、または小作地は三分法の低率制度を採用した[1][2]。
1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(秋田県第1区、大成会)で当選し[1][2][5]、1892年(明治25年)2月、第2回総選挙(秋田県第1区、中央交渉会)でも再選され[1][5]、衆議院議員に連続2期在任した[1][2][3][4]。
50歳頃から体調を崩し[1]、冬期は静岡県庵原郡興津町(現静岡市清水区)で過ごし[1]、1910年1月、同地で死去した[1]。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『秋田人名大事典(第二版)』492頁では2月13日。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 杉渕廣『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』秋田魁新報社、1989年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『秋田人名大事典(第二版)』秋田魁新報社、2000年。