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工藤八之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
工藤八之助
くどう はちのすけ
生年月日 1871年3月23日
出生地 日本の旗 日本 羽前国村山郡米沢村
(現山形県寒河江市)
没年月日 (1928-08-21) 1928年8月21日(57歳没)
所属政党 立憲政友会
子女 三男・二田是儀
親族 孫・二田孝治(衆議院議員)

在任期間 1925年9月29日 - 1928年8月21日



村山郡会議長

村山郡会議員

その他の職歴
高松村会議員
( - )
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12代[1] 工藤 八之助(くどう はちのすけ、1871年3月23日(明治4年2月3日[1][注 1])- 1928年昭和3年)8月21日[2])は、明治から昭和初期の地主政治家実業家貴族院多額納税者議員。幼名・松吉[3]、旧名・郁之助[4]

経歴

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出羽国村山郡米沢村(山形県西村山郡高松村を経て現寒河江市米沢)で、素封家・先代工藤八之助(五八[1][4])の長男として生まれる[3][5]格知学舎で国史、国文、漢学などを学んだ[5]。1900年(明治33年)家督を相続し12代八之助を襲名した[1][4]

1900年以降、高松村会議員、村山郡会議員、同議長、村山郡農会長、高松村長、山形県会議員、同参事会員などを務めた[2][3][5]

実業界では、羽前製糸社長、庄内電気社長などを務めた[5][2]左沢線の誘致に尽力し、高松駅の設置に当たり多額の寄付を行った[3]

また、県立寒河江中学校[注 2](現山形県立寒河江高等学校)、同谷地高等女学校(現山形県立谷地高等学校)などの校友会会長、父兄会会長を務め、また多額の寄付を行った[5]

1925年(大正14年)貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月29日に就任[2][3][6]立憲政友会山形県会長となる[3]。1928年8月、在任中に死去した[2][7]

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『現代日本人名大辞典』く之部7頁では明治4年3月2日。
  2. ^ 『現代日本人名大辞典』く之部7頁では寒川中学校。

出典

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  1. ^ a b c d 『大衆人事録 昭和3年版』ク3頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』197頁。
  3. ^ a b c d e f 『山形県大百科事典』263頁。
  4. ^ a b c 『人事興信録 第8版』ク5頁。
  5. ^ a b c d e 『現代日本人名大辞典』く之部7頁。
  6. ^ 『官報』第3931号、大正14年9月30日。
  7. ^ 『官報』第499号、昭和3年8月24日。
  8. ^ 杉渕廣『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』秋田魁新報社、1989年、340頁。

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 山形放送株式会社山形県大百科事典事務局編『山形県大百科事典』山形放送、1983年。
  • 『現代日本人名大辞典 昭和5年版』東邦通信社、1930年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年。