了玄
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時代 | 室町時代中期 - 後期 |
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生誕 | 文明10年(1478年) |
死没 | 永正15年(1518年)1月 |
改名 | 耀山周台→勝禅院(照禅院)了玄 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 足利氏(足利将軍家) |
父母 | 父:足利義視、母:不詳 |
兄弟 | 足利義稙、維山周嘉、了玄、義忠、水野義純?[1]、祝渓聖寿[2] |
了玄(りょうげん)は、室町時代中期から後期にかけての真言宗の僧侶。室町幕府の第10代将軍・足利義稙の異母弟[3]。
生涯
[編集]文明10年(1478年)、室町幕府の第8代将軍・足利義政の弟である足利義視の子として誕生[3]。母は不詳[3]。この当時、義視は嫡子・義稙と共に美濃に在国していたことから、美濃で出生した可能性が高い[3]。
延徳3年(1491年)4月、耀山 周台(ようざん しゅうだい)と名乗り、相国寺の大智院に入寺した[3]。
明応元年(1492年)6月、兄・義稙の命によって、真言宗の僧となり、醍醐寺の三宝院門跡となった[3]。
明応2年(1493年)4月、義稙が細川政元らが起こした明応の政変によって失脚し、やがて周防に下向すると、兄に従って周防に入った[3]。周防在国中、三宝院門跡を辞し、名を勝禅院 了玄(しょうぜんいん りょうげん)と号した[3]。
永正5年(1508年)6月、義稙が京都を奪還すると、了玄も兄とともに周防から帰京した[3]。だが、しばらくすると、兄と対立したようで、永正6年(1509年)10月に京都を出奔する騒ぎを起こしている[3]。
その後、了玄は帰京し、永正15年(1518年)正月に死去した[3]。享年41[3]。