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九条満家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
九条満教から転送)
 
九条満家
時代 室町時代前期
生誕 応永元年(1394年
死没 文安6年5月4日1449年5月25日
改名 満教→満輔→満家
別名 号:後三縁院
官位 従一位関白左大臣
主君 称光天皇後花園天皇
氏族 九条家
父母 父:九条経教、養父:九条忠基
兄弟 忠基教嗣教嗣、孝円、満家経覚、道尊、仁意
唐橋在豊の娘
加々丸政基、尋実、 養子:政忠
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九条 満家(くじょう みついえ)は、室町時代前期の公卿関白九条経教の三男。官位従一位・関白、左大臣。九条家12代。号は後三縁院。

経歴

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応永11年(1404年)12月に元服[1]九条家では初めて足利将軍家からの偏諱を受けた人物であり、室町幕府3代将軍足利義満から「満」の字を与えられた[2]。初めは父・経教の1字と合わせて満教(みつのり)と名乗り[1]、のちに満輔(みつすけ)[注釈 2]満家[注釈 3]と改名した。

50年近くも歳の離れた異母兄・忠基に跡継ぎがいなかったため、その養子という形をとって、九条家12代当主となる。

応永13年(1406年)13歳で従三位に叙せられる。同21年(1414年)12月には右大臣[1]、同25年(1418年12月2日には25歳にして関白・左大臣に任ぜられる[1]。これは前関白一条経嗣の死去によるものであったが、本来満家が継ぐはずであった東福寺などの九条流の寺院の管理権を継ぐことができなかった。これは九条家の家臣が東福寺領内で殺害されて以来、両者が不仲であったためという[3]

応永26年(1419年)に従一位に昇叙される[1]が、同年9月には左大臣を[1]、その後同31年(1424年)4月には関白を辞任した[1]

文安5年(1448年)10月には具合の悪かった満家は大和国にいる弟の経覚を呼び、次期九条家家督として、満家の嫡男であるが病弱であった加々丸(28歳になるが未だに元服をしていない)の10歳になる若君(九条政忠)か、満家の実子で4歳になる茶々丸(九条政基)のどちらに家を継がせばよいかを問うたところ、思案した経覚はひとまず10歳の若君を家督とし、将来には茶々丸に家督を譲らせるということにすれば良いのではというと、満家はたいそう喜んでその通りにし、10歳の若君を満家の養子として家を継がせた。また、加々丸は出家した[4][5][6]。同年、出家[1]。文安6年(1449年)5月4日、56歳で薨去[1]

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 満家の元服当時、義満は将軍職を子の義持に譲り法名の「道義」を名乗っていたが、時の権力者として「満」の字を与えていたことが窺える。
  2. ^ 永享3年(1431年)から同10年(1438年)にかけての『公卿補任』で「満輔」の名が見られる[1]
  3. ^ 永享10年(1438年)に称する[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 安田 1990, p. 162, 武田彩子「九条満家」
  2. ^ 安田 1990, p. 34, 新田英治「足利義満」[注釈 1]
  3. ^ 樋口健太郎「摂関家九条流における「氏寺」の継承と相論」『神戸大学史学年報』29号、2014年。 /改題所収:樋口健太郎「摂関家九条流における「家門管領寺院」の継承と相論」『中世王権の形成と摂関家』吉川弘文館、2018年、260-261頁。ISBN 978-4-642-02948-3 
  4. ^ 酒井紀美『経覚』p150-p154
  5. ^ 小森正明「室町期における九条家領荘園について―尾張国二宮荘を中心として―」(『書陵部紀要』第60号)
  6. ^ 廣田浩治「中世後期の九条家家僕と九条家領荘園:九条政基・尚経期を中心に」(『国立歴史民俗博物館研究報告 第104集』)内の系図

参考文献

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