九条忠高
表示
時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 建暦元年(1211年) |
死没 | 建治2年5月4日(1276年6月17日) |
改名 | 忠高→専信(法名) |
官位 | 正二位、中納言、民部卿 |
主君 | 順徳天皇 → 仲恭天皇 → 後堀河天皇 → 四条天皇 → 後嵯峨天皇 → 後深草天皇 → 亀山天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流九条家 |
父母 | 父:二条定高、母:藤原親雅の娘 |
兄弟 | 忠高、九条有経、和徳門院女房按察、花山院定雅室、吉田為経室、姉小路顕朝室、尚侍家女房中納言局、一条実経室 |
子 | 九条高俊、九条高長、九条定光、九条定忠、九条高朝、定暁、光信、女子(東一条院女房中納言局)、女子、女子、女子 |
九条 忠高(くじょう ただたか、建暦元年〈1211年〉 - 建治2年〈1276年〉)は、鎌倉時代の公卿。正二位中納言、民部卿。父は按察使二条定高、母は参議藤原親雅女。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』および『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 承久元年(1219年)1月5日、叙爵。
- 元仁2年(1224年)1月23日、伊賀守に任ぜられる。同年12月22日、勘解由次官を兼ねる。
- 安貞元年(1228年)1月5日、従五位上に昇叙[1]。
- 安貞2年(1229年)1月5日、正五位下に昇叙[2]。
- 寛喜2年(1230年)2月16日、中宮大進に任ぜられる。
- 寛喜3年(1231年)3月25日、左衛門権佐を兼ねる[3]。同年4月5日、右少弁に任ぜられる[4]。同年10月20日、防鴨川使を兼ねる[5]。同月28日、春宮大進に任ぜられる[6]。
- 貞永元年(1232年)10月4日、春宮大進を止める。同年12月14日、蔵人に補される。
- 貞永2年(1233年)1月28日、左少弁に転任。同年12月2日、左少弁と蔵人を去る。
- 文暦元年(1234年)12月21日、正五位上に昇叙。
- 文暦2年(1235年)6月17日、権右中弁に任ぜられる。同日、従四位下に昇叙。
- 嘉禎2年(1236年)2月30日、右中弁に転任。同年12月18日、従四位上に叙せられ蔵人頭に補される。
- 嘉禎3年(1237年)1月24日、左中弁に転任。同年2月21日、左宮城使を兼ねる。同年4月24日、正四位下に昇叙[7]。
- 嘉禎4年(1238年)1月22日、父定高の喪に服す。同年2月15日、母の喪に服す。同年閏2月6日、復任した。同月27日、右大弁に転任。
- 暦仁元年(1238年)4月20日、参議に任ぜられる。同日、左大弁に転任。同月23日、勘解由長官を兼ねる。
- 暦仁2年(1239年)1月24日、従三位に昇叙。
- 延応2年(1240年)1月22日、播磨権守を兼ねる。
- 仁治2年(1241年)2月1日、権中納言に任ぜられる。
- 仁治3年(1242年)9月10日、大嘗会御潔斎装束司長官に任ぜられる。同年11月12日、正三位に昇叙。
- 寛元2年(1244年)6月13日、権中納言を辞退。
- 寛元4年(1246年)1月5日、従二位に叙せられる。
- 建長6年(1254年)9月6日、正二位に昇叙。
- 建長8年(1256年)4月5日、民部卿に任ぜられる。
- 文応元年(1260年)8月28日、中納言に任ぜられる。
- 弘長元年(1261年)3月27日、中納言を辞退。
- 文永9年(1272年)出家。法名専信。
- 建治2年(1276年)5月4日、薨去。享年66。
系譜
[編集]- 父:二条定高(1190-1238)
- 母:参議藤原親雅の娘
- 妻:不詳
- 男子:九条高俊
- 男子:九条高長
- 男子:九条定光
- 男子:九条定忠
- 男子:九条高朝
- 男子:定暁
- 男子:光信
- 女子:東一条院女房中納言局
- 女子
- 女子
- 女子