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乃美景継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
乃美景継
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄5年(1562年
死没 慶長18年9月14日1613年10月27日
改名 乃美勝吉(幼名)→乃美景継
別名 通称:新十郎→孫兵衛尉
官位 備後守
主君 小早川隆景毛利輝元秀就
氏族 土肥系小早川氏庶流乃美氏
父母 父:乃美宗勝、母:末長景盛の娘
兄弟 盛勝景継、女(天野平右衛門室)、
磯兼景綱、女(村上吉亮室)、景嘉
女(生口平左衛門室)、女(村上助右衛門室)、
景尚、女(郡彦兵衛室)、女(古屋加兵衛室)、
女(井上景貞室)
横山某の娘
養子:浦元種(弟・磯兼景綱の子)
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乃美 景継(のみ かげつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将小早川氏毛利氏の家臣で長州藩士。父は小早川隆景の重臣である乃美宗勝

生涯

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永禄5年(1562年)、小早川隆景の重臣である乃美宗勝の次男として生まれる。

天正10年(1582年3月3日、父・宗勝と兄・盛勝に対して織田方の蜂須賀正勝黒田孝高が書状を送り調略を行っているが、宗勝は応じなかった[1]。一方で、盛勝は別途さらに調略を受けており、これ以降盛勝の動向が不明となっていることから、織田方からの調略に盛勝が揺れたことに気付いた宗勝によって廃嫡された可能性が指摘されている[1]。これ以降、盛勝に代わって景継が宗勝の後継者となった。

天正11年(1583年)9月、吉川経言(後の吉川広家)羽柴秀吉への人質として上洛する際の接待において、弟の乃美新三郎(後の磯兼景綱)と共に携わっている[2]

天正20年(1592年9月23日文禄の役において病を得た父・宗勝が死去し、家督を継ぐ。

慶長2年(1597年6月12日に小早川隆景が死去すると、景継は毛利輝元に仕えることを希望し、輝元の承諾を受けた景継は同年7月8日血判起請文堅田元慶に送り、二心無く力を尽くして忠節を遂げる所存であること、万一隠密の儀を聞かされても一切他言しないこと、多数いる兄弟や他の者について何か申す者がいれば糾明を遂げて頂きたいこと等を誓っている[3]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは村上景広と共に毛利氏の水軍を率いて東海方面に出陣し、9月9日早朝には九鬼嘉隆と協力して尾張国知多郡大野方面に出陣して東軍の背後を衝いて大勝する[4]。さらに翌日の9月10日には知多郡の野間内海方面でも大勝し、知多半島西岸の六浦を制圧して引き揚げた。この2日間の戦いで景継と村上景広らは多数の首級を挙げており、2人が9月12日に輝元に提出した首注文によると、景継の配下が獲た首級が130[5]、村上景広の配下が獲た首級は117となっている[6][4]

慶長12年(1607年1月26日江戸時代に入ってから初めての朝鮮通信使が来日するため、宿などの事を言い含めた柳澤景祐を派遣するので相談して然るべき馳走をすることを毛利輝元から命じられる[7]

慶長18年(1613年9月14日に死去。享年52。実子はおらず、弟・磯兼景綱の子で景継の養子となった浦元種が後を継いだ。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b 光成 2019, p. 114-115.
  2. ^ 光成 2019, p. 115.
  3. ^ 三卿伝編纂所 1982, p. 572-573.
  4. ^ a b 三卿伝編纂所 1982, p. 594.
  5. ^ 『毛利家文書』第381号、慶長5年比定9月12日付、尾張国野間内海合戦頸注文。
  6. ^ 『毛利家文書』第382号、慶長5年比定9月12日付、尾張国野間内海合戦頸注文。
  7. ^ 『小早川家文書』附録「浦家文書」第44号、慶長12年比定1月26日付、乃美孫兵衛尉宛て毛利宗瑞(輝元)書状。

参考文献

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  • 萩藩閥閲録』巻11「浦圖書」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』(マツノ書店、1982年)
  • 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』(吉川弘文館、2007年)
  • 白峰旬「「伊勢国津城合戦頸注文」及び「尾張国野間内海合戦頸注文」に関する考察(その3)-津城合戦(慶長5年8月)における毛利家の軍事力編成についての検討-」(『史学論叢』第48号、2018年)