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中村外二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中村外二(なかむら そとじ、1906年12月 - 1997年5月17日[1])は、京都数奇屋大工棟梁裏千家御家元御用達の作事方大工。富山県小矢部市(旧石動町)出身。

略歴

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  • 大正7年(1918年)、12歳の時に伯父で高名な大工、水田常次郎に弟子入りし、大工となる。
  • 大正初期頃の贅を尽くした『高級数寄屋建築』の多くは、江戸時代から文化の発祥地である遊郭屋の『貸座敷』で、外二は当時の清水組(現清水建設)の仕事で”へその緒を切った”(初仕事)。
  • 昭和21年(1946年)40歳の時、嫡男義明誕生。大工として独立。大東亜戦争終戦(1945年)により、まずは住宅などの小型物件が急務となった。 200名など大勢の職人を抱える大規模建築の工務店は、仕事がなく職人らを食べさせる事が困難となり多数倒産した。職人の多くは、和歌山や福井などの地方出稼ぎ労働者であったことも手伝って、そのほとんど(9割とも言われる)が地元へ帰省し、帰京しなかった。それでも、棟梁クラスの腕の良い名工達は京都に残った。外二と数人の同志は、いずれも富山の農家出自により、米など食料は手に入り、戦後の食糧難でも職人達を食べさせることが出来たし、小型物件の仕事はあったため、外二はその名工らを迎え入れた。 職を失った名工達が20~30人続々と外二の元に集結した。その中には『京数寄屋の名人・北村捨次郎』の右腕と言われた匠など、名工が何人もいた。
  • 昭和20~30年代頃の『高級数寄屋建築』の多くは料理店であり、数多く手がけた。中でも京都老舗の修復は、歴史的な名工の技術を研究・復元する貴重な経験となった。
  • 昭和28年(1953年)亡くなった岡田永斎に代わって、茶道御家元御用達(出入り)の数寄屋建築師(作事方)となる。
  • 昭和41年(1966年)頃から、松下幸之助の社会貢献事業である茶室を多数完成させ、評価を得る。
  • 昭和61年(1986年)、現代の名工として表彰される[1]
  • 昭和63年(1988年)、勲六等瑞宝章を受章[1]
  • 平成4年(1992年)、京都市文化功労者に認定される[1]
  • 平成9年(1997年)没。生涯「大工の中村です」と謙虚であり、現場主義を貫いた。

作品

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瑠璃光院

関連著作

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  • 中村外二数寄屋建築施工集
  • 匠技-大工・中村外二の仕事

脚注

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  1. ^ a b c d 『現代物故者事典 1997~1999』(日外アソシエーツ、2000年)p.432

関連項目

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