中川維則
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中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月 - 1945年(昭和20年))は、日本の鉱物学者。
経歴
[編集]神奈川県中郡旭村(現在の平塚市)出身[1]。出縄善太郎の二男として生まれ、中川隣之助の養子となった[2]。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業し、農商務省東京鉱務署に勤務した[2]。1908年(明治41年)、ドイツに留学[2]。1910年(明治43年)、私立明治専門学校(現在の九州工業大学)教授嘱託となり、1921年(大正10年)に同校が文部省に移管されると教授に就任した[2]。採鉱冶金科長を経て[3]、1933年(昭和8年)からは校長を務めた[2]。1941年(昭和16年)、退官[3]。
その他、九州帝国大学講師、戸畑商工会議所顧問、海外鉱業協会仏印研究所長を務めた[3]。
脚注
[編集]- ^ 大衆人事録 1940.
- ^ a b c d e 大衆人事録 1935.
- ^ a b c 人事興信録 1943.
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第14版』人事興信所、1943年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第11版』帝国秘密探偵社、1935年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第13版』帝国秘密探偵社、1940年。