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中島寶三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかじま ほうぞう
中島 寶三
本名
生年月日 (1904-05-27) 1904年5月27日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本
職業 映画監督脚本家
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1922年 - 1941年
主な作品
萬花地獄
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中島 寶三(なかじま ほうぞう、1904年5月27日 - 没年不詳)は、日本の映画監督脚本家である[1][2][3][4][5]。本名同じ、新漢字表記中島 宝三[1][2][3][4][5]

人物・来歴

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1904年明治37年)5月27日に生まれる[1][2]。正確な生地は伝えられていないが、九州出身とみなされている[1][2]

高等商業学校(現在の新制大学経済学部に相当)を卒業後、1922年(大正11年)、満18歳にして映画の制作プロダクションを九州で設立するが、1年半で解散、機材を含めた全財産を整理し、親から勘当を受ける[1]岸松雄が執筆した『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)によれば、1923年(大正12年)9月、東亜キネマに入社、翌1924年(大正13年)、牧野省三に監督助手・脚本見習として師事する旨の記述があるが[1]、東亜キネマが設立されたのは同年12月であり、東亜キネマが牧野省三の撮影所を買収するのは翌年6月である[6]。記録に残る最初の脚本作品は、牧野省三が東亜キネマと決別し、御室撮影所を新設して設立したマキノ・プロダクションが製作、1925年(大正14年)8月28日に公開した『白虎隊』(総監督マキノ省三、監督勝見正義)である[3][4]。1926年(大正15年)12月15日に公開された『照る日くもる日 第三篇』では、マキノ省三総監督のもと「監督」とクレジットされている[3][4]。単独クレジットによる監督デビュー作は1927年(昭和2年)4月15日公開の『紫地獄』であるとされる[1][3][4]。一本立ちした中島に師事した助監督に藤田潤一がおり、藤田は多く中島の脚本を手がけた>[3][4][7]

1929年(昭和4年)7月25日、師事した牧野省三が死去したのち、マキノ正博による新体制において15作を監督したが、1930年(昭和5年)末をもって同社を退社、帝国キネマ演芸に移籍した[1][3][4]。1931年(昭和6年)8月28日、同社が新興キネマに改組されると、継続的に新興キネマ京都太秦撮影所(現在の東映東京撮影所)に入社したが、1932年(昭和7年)末には東京に移住し、河合映画製作社に移籍した[1][3][4]。1933年(昭和8年)6月、同社が大都映画に改組されると、継続的に大都に入社、1941年(昭和16年)末まで多くの映画を演出した[1][3][4]。大都映画で中島に師事した助監督には佐伯幸三がいた[8]

1943年(昭和18年)、中島は陸軍報道班員として徴用され、フィリピンマニラに赴任した[1][9]。このとき、マキノ時代の同僚であった山上伊太郎(1903年 - 1945年)も同船であったという[1]。このときの報道班員は中島・山上のほかに、荒井良平日夏英太郎山内俊英吉田百助樋口哲雄内海信二らがいた[10]。以降、映画界からは姿を消した[1][3][4]

第二次世界大戦後は、別府市観光協会が1950年(昭和25年)4月15日に発行した『観光別府』に『映画と劇場』という記事を執筆している。1955年(昭和30年)7月に発行された『愛媛教育時報』第8巻第9号に『三輪田米山』という記事を寄稿している[11]没年不詳

フィルモグラフィ

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クレジットは特筆以外すべて「監督」である[3][4]。公開日の右側には監督を含む監督以外のクレジットがなされた場合の職名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][12]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

マキノ御室撮影所

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すべて製作は「マキノ御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[3][4]

帝国キネマ

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すべて製作・配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[3][4]

新興キネマ

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すべて製作・配給は「新興キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]

河合映画製作社

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特筆以外すべて製作・配給は「河合映画製作社」、すべてサイレント映画である[3][4]

大都映画

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特筆以外すべて製作・配給は「大都映画」、後期の特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m キネマ旬報社[1980], p.284.
  2. ^ a b c d 中島宝三jlogos.com, エア、2013年4月2日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 中島宝三日本映画データベース、2013年4月2日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs 中島宝三、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月2日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i 中島宝三東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月2日閲覧。
  6. ^ 等持院撮影所立命館大学、2013年4月2日閲覧。
  7. ^ キネマ旬報社[1980], p.342.
  8. ^ 渡邉[2010], p.225.
  9. ^ 渡邉[2010], p.196-197.
  10. ^ 桜本[1993], p.125.
  11. ^ 三輪田米山国立国会図書館、2013年4月2日閲覧。
  12. ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年4月2日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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