中井良太郎
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中井 良太郎(なかい りょうたろう、1887年(明治20年)2月4日[1][2] - 1953年(昭和28年)12月13日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]三重県出身[1][2][3]。農業・中井秀蔵の養嗣子となる[1]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊付となった[1][4]。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した[1][2][3]。
陸軍省軍務局付勤務、軍務局課員、陸軍兵器本廠付、歩兵第21連隊大隊長などを歴任[1]。1928年(昭和3年)12月から陸大専攻学生となる[1]。翌年12月、人事局付となり、人事局課員などを務めた[1]。
1931年(昭和6年)8月、歩兵大佐に昇進し人事局恩賞課長に就任[1][3]。歩兵第15連隊長を経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍少将に進級[1][3]。歩兵第14旅団長、東部防衛参謀長を歴任[1][2][3]。1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に昇進し東部防衛司令部付となる[1][2][3]。
1939年5月、第106師団長に就任し日中戦争に出征[1][2][3]。贛湘作戦などに参戦[2]。その後、汕頭方面での掃討作戦に参加した[2]。この作戦を最後に第106師団は1940年(昭和15年)3月9日に復員し待命となり、同年4月、予備役に編入された[1][2][3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 1909年(明治42年)3月1日 - 正八位[6]
- 1912年(明治45年)3月1日 - 従七位[7]
- 1917年(大正6年)3月20日 - 正七位[8]
- 1922年(大正11年)4月20日 - 従六位[9]
- 1927年(昭和2年)5月16日 - 正六位[10]
- 1931年(昭和6年)9月15日 - 従五位[11]
- 1936年(昭和11年)10月1日 - 正五位[12]
- 勲章等
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[13]
著書
[編集]- 『兵役法要義 前編』川流堂小林又七、1922年。
- 『軍制学大意 - 陸軍篇』兵書出版社、1926年。
- 『戦闘一般の要領 - 中等学校軍事講話』織田書店、1927年。
- 『通俗逐条講話兵役法詳解』織田書店、1928年。
- 『兵役法綱要 - 附・徴発令大要』松華堂書店、1928年。
- 『心の維新 - 臣道講話』明治図書、1941年。
- 『日本古戦史の真価』洛陽書院、1941年。
- 『史考大東亜戦争』二見書房、1942年。
- 『戦争史観の断片』二見書房、1942年。
- 『長期戦の国史考』国民新聞社出版部、1942年。
- 『兵理より観たる産業戦の指導原理』長尾出版報国会、1943年。
- 『将帥論』ダイヤモンド社、1943年。
- 『戦略的に観た織豊戦史』電通出版部、1943年。
- 『思想決戦 - 適思想侵攻とその撃砕』鳴玄社、1944年。
- 『吾等の世界観』泰文堂、1944年。
親族
[編集]- 子息 中井宗夫(弁護士・中小企業災害補償共済福祉財団理事長)[要出典]
- 娘婿 緒方景俊(陸軍少佐・空将)[1]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、111頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』505頁。
- ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』253頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』251、253頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」106頁。
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 『官報』第8608号「叙任及辞令」1912年3月2日。
- ^ 『官報』第1389号「叙任及辞令」1917年3月22日。
- ^ 『官報』第2913号「叙任及辞令」1922年4月21日。
- ^ 『官報』第151号「叙任及辞令」1927年7月1日。
- ^ 『官報』第1434号「叙任及辞令」1931年10月8日。
- ^ 『官報』第2928号「叙任及辞令」1936年10月3日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。