両角三郎
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生誕 | 1867年11月27日 |
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死没 | 1951年6月28日(83歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1891年 - 1921年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
両角 三郎(もろずみ さぶろう、慶應3年11月2日(1867年11月27日) - 昭和26年(1951年)6月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。正四位勳二等功五級。
略歴
[編集]父は会津藩士で禄100石を食み、祐筆を務めた[1]両角衛門。陸軍教導団を経て[2]陸軍士官学校を卒業(1期)、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科45番/103名で卒業している。日清戦争、日露戦争に従軍し、歩兵第60連隊長、近衛歩兵第4連隊長を経て、1916年(大正5年)8月少将へ昇進し、台湾第二守備隊司令官、歩兵第18旅団長を歴任した。1921年(大正10年)6月中将へ昇進と同時に待命となり、同年10月予備役編入となる。その後は、日本徴兵保険顧問を務めた[2]ほか、在郷軍人会審議委員を務めている。なお両角は旧会津藩所縁の高等武官で組織された稚松会の最後の会長であった[3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
栄典
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)2月3日 - 正八位[5]
- 1897年(明治30年)12月15日 - 正七位[6]
- 1903年(明治36年)3月20日 - 従六位[7]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 正六位[8]
- 1912年(明治45年)4月10日 - 従五位[9]
- 1916年(大正5年)9月11日 - 正五位[10]
- 1921年(大正10年)6月28日 - 従四位[11]
- 勲章等
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『慶應年間 会津藩士人名禄』
- ^ a b 『大衆人事禄』
- ^ 『福島県立会津高等学校70周年記念誌』
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。
- ^ 『官報』第2576叙任及辞令」1892年2月4日。
- ^ 『官報』第4341号「叙任及辞令」1897年12月18日。
- ^ 『官報』第5912号「叙任及辞令」1903年3月21日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第8640号「叙任及辞令」1912年04月11日。
- ^ 『官報』第1236号「叙任及辞令」1916年9月12日。
- ^ 『官報』第2673号「叙任及辞令」1921年6月29日。
- ^ 『官報』第3749号「叙任及辞令」1895年12月25日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月5日。
- ^ “リサーチナビ”. 国会図書館. 2012年10月8日閲覧。
参考文献
[編集]- 「両角歩兵中尉結婚願いの件」(ref: C07041344900)
- 「帝国在郷軍人会評議員其の他拝謁の件名簿」(ref:C04016064800)
- 帝國秘密探偵社編纂部『大衆人事録』 (第13版 1939年10月)
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』 芙蓉書房出版
- 太平洋戦争研究会『日本陸軍将官総覧』PHP研究所
- 福島県立会津高等学校『福島県立会津高等学校70周年記念誌』
- 財団法人 稚松会名簿