与祢
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与祢(よね、天正8年(1580年) - 天正13年11月29日[1](1586年1月18日))は、安土桃山時代の女性。山内一豊の長女にして、唯一の実子。
人物
[編集]天正8年(1580年)、山内一豊と正室・見性院の長女として生まれる[2][3]。『一豊公紀』では「與禰姫」と記されている[2]。
天正13年(1585年)、父・一豊が近江国長浜城城主となる[4][3]。
同年(1586年)11月29日、長浜大地震(天正地震)により同城は全壊し、与祢姫は乳母とともに命を落とした[1][5][6][4]。6歳[7]。
このことについて『一豊公紀』には、「十一月二十九日 於江州長浜宇内、大地震。山川転動裂壊家屋、顛潰長濱之御城殿崩、與禰姫様喪亡、御歳六歳。号光景妙円是。見性院様御腹子也。此時、御家人乾彦作和信始数拾人死」と記している。
この後、夫婦は子宝に恵まれず、一豊の死後は、一豊の弟・康豊の子・忠義が後を継いだ[8]。
演じた俳優
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “城博コラム > 山内家の歴史 > 一豊と見性院”. 高知城歴史博物館. 2022年2月27日閲覧。
- ^ a b 一豊公紀 1980, p. 93,95.
- ^ a b “一豊と千代が生きた時代”. 掛川市 (2011年10月31日). 2024年3月2日閲覧。
- ^ a b “功名が辻 ~山内一豊公と千代夫人~”. 米原市 (2017年11月30日). 2024年3月2日閲覧。
- ^ 一豊公紀 1980, pp. 93–95.
- ^ “天正地震(天正13年)”. 岐阜県庁 (2021年3月31日). 2023年11月12日閲覧。
- ^ a b 一豊公紀 1980, p. 93.
- ^ 寒川 2011, pp. 86–87.
参考文献
[編集]- 『第一代 一豊公紀』山内神社宝物資料館〈山内家史料〉、1980年6月。NDLJP:12262465/79。(要登録)
- 寒川旭『地震の日本史 大地は何を語るのか』(増補版)中央公論新社〈中公新書 1922〉、2011年5月25日。ISBN 978-4-12-191922-9。