下野村 (愛知県)
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しものむら 下野村 | |
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総鎮守である楉埜神社 | |
廃止日 | 1878年 |
廃止理由 |
合併 |
現在の自治体 | 扶桑町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 愛知県 |
郡 | 丹羽郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,237[1]人 (1800年代初め[1]) |
下野村役場 | |
所在地 | 愛知県 |
ウィキプロジェクト |
下野村(しものむら)は、愛知県丹羽郡にかつてあった村(町村制施行前の村)。
歴史
[編集]地理
[編集]『天保村絵図』によると、下野村は郷中に犬山から名古屋へと岩倉街道(柳街道)が通っていた。やや東寄りに小口街道(織田街道)がある。これらと交差するように西から東へ三本の道が通っている。北にある道を利用すれば、草井村方面から北山名村、下野村を経て下野原新田へと通じていたようである。1650年(慶安3年)丹羽郡木津村に、木曽川の本堤に木津閘という大元杁が完成した。続いて、大井堀(現在の古木津用水)が開削され、木津で第一の枝井筋が設けられて新川井筋となっている。次の井筋が古川陽水、上野村地内で二条に分かれ、現在の丹羽用水東部線と、丹羽用水西部線になっている。
地名
[編集]下野村の地名は、1443年(嘉吉3年)2月16日銘の鰐口(春日井市密蔵院蔵)に「本懸鰐口尾州丹羽郡下野村観音寺三十三所巡礼堂」という記録がある。また、名鉄犬山線扶桑駅は高雄駅として開業したのち、1913年(大正2年)3月27日に下野駅に改称[2]。1948年(昭和23年)2月1日 に現在の扶桑駅に改称するまで、下野の名を冠していた。また、木津用水駅近くには犬山市に属する「上野」という地名が残っている。
集落
[編集]- 本郷 - 今の東川あたりではないか。
- 定松 - 今の南北両定松でまだ分かれていなかった。
- 宮島 - この島は海岸にある島を意味するものではなくて、ひとつの村の呼び名で、普通に組というのと同じであろうと思う。この集落には、下野の総鎮守である楉埜神社があり、大宮があるところから宮島といったものであろう。
- 伊勢帰 - キリシタンに関係があるとか、「お伊勢参り」に因む地名とかの説があるが、どうもそうではないらしい。江戸中期に書かれた絵図には、岩倉街道に沿って宮島、福塚、堰という集落が記されている。この堰という集落が今の伊勢帰にあたる。堰も伊勢帰も読みはイセキである。堰に変体仮名でふりがなをつけるか、かな書きにすると伊勢帰と書く。堰が伊勢帰と書かれ、いつしか「いせがえり」と呼ばれるようになったのではないかといわれる。
- 大淵 - 木曽川の枝流の一つが大きく弧を描いて水勢の行き当たるところ、深く浸食されて淵を成していたところから、人々はこの場所を大淵と呼んだといわれる。
学校
[編集]参考文献
[編集]- 『扶桑町史』、扶桑町、1998年、第四章 近世、280 - 282頁。
脚注
[編集]- ^ a b 『扶桑町史』、扶桑町、1998年、第四章 近世 第一節 江戸時代の村々、279頁。
- ^ 「軽便鉄道駅名改称」『官報』1913年4月4日(国立国会図書館デジタル化資料)
- ^ 尾張北部の旧丹羽郡の学校史 ⑵ (PDF)
関連項目
[編集]- 愛知県の廃止市町村一覧
- 下野村 (曖昧さ回避)
- アクロスプラザ扶桑 - 現在、下野に建つ複合商業施設。