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下田文一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

下田 文一(しもだ ぶんいち、1886年8月23日[1] - 1951年7月1日)は、日本の実業家南洋拓殖社長。

人物・経歴

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長野県下伊那郡竜丘村(現・飯田市)出身[2][3][1]。1910年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1912年同専攻部銀行科卒業[4][2]

1913年から1915年まで東亜同文書院教授を務め[5]三井物産入社後[2]、同社台北支店長代理、本店業務課長、奉天出張所長等を経て[6]、1936年南洋拓殖入社[7]

日満鋼材監査役、南洋開拓理事、南国企業社長等を歴任し[6]、1940年南拓鳳梨社長[8]。1944年南洋拓殖社長[9][10]

親族

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妻の二三子は中山久四郎の長女[11]

脚注

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  1. ^ a b 川上七五三『長野県勢総覧 訂補』長野県勢総覧刊行会、1930年、p.608。
  2. ^ a b c 下田 文一(読み)シモダ ブンイチ20世紀日本人名事典 「下田 文一」の解説
  3. ^ 信州の人脈 下 図書 信濃毎日新聞社, 1967
  4. ^ 東京商科大学卒業生名簿 昭和16年5月末日現在
  5. ^ 創立四拾週年東亜同文書院紀念誌
  6. ^ a b 人事興信録 第14版 上
  7. ^ 日満銀行会社職員録 昭和16年版
  8. ^ 官報 1940年08月20日
  9. ^ 会社四季報 昭和19年 7月刊東洋経済新報社出版年月日昭和16-22
  10. ^ 南拓誌 図書 南拓会, 1982.11
  11. ^ 中村久四郞 (男性)人事興信録データベース第8版 [昭和3(1928)年7月](名古屋大学大学院法学研究科
先代
大志摩孫四郎
南洋拓殖社長
1944年 - 1945年
次代
解散