上街道 (木曽街道)
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上街道(うわかいどう)は、江戸時代に中山道と名古屋城下を結んだ脇往還(街道)。「木曽街道」、「名古屋往還」とも呼ばれていた。
概要
[編集]江戸時代に尾張藩が独自に作った街道で、名古屋城下の東片端(現在の愛知県名古屋市東区)から中山道の伏見宿(現在の岐阜県可児郡御嵩町)までを結んでいた。総距離は、10里8丁(約40km)。途中3つの宿場町があった。名古屋から楽田追分(現在の愛知県犬山市)までは稲置街道とルートが重複している。軍事的な事情から、大きな川に橋がない・升形が多い・2間幅であるなど、五街道に準じた道の作りになっている。現在の国道41号や名鉄小牧線・名鉄広見線に相当する。
歴史
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名称の由来
[編集]「上街道」の名称は、当時同じように中山道と名古屋城下を結んでいた下街道との対比によるものである。
「木曽街道」の名称は、中山道が木曽地方に通じていたことから名付けられたが、藩主など要人は当街道を通ることになっていたことから、庶民向けの下街道と対比した呼び方となったのである。これらの他に小牧宿を通ることから「小牧街道」、小牧宿に尾張徳川家の別荘があり、前出の通り藩主の往来があったことから「御殿様街道」とも呼ばれていた。また、楽田追分までは「稲置街道」と呼ばれることの方が多く、稲置街道が名古屋と犬山を結ぶことから「名古屋往還」「犬山街道」とも呼ばれた。
宿場・追分
[編集]- (下街道)札の辻(愛知県名古屋市中区)
- 東片端(現在の地名表記では「泉1丁目」)(愛知県名古屋市東区)下街道と分岐
- 上街道始点:名古屋城東大手門(愛知県名古屋市東区)
- 上街道終点:太田の渡し(岐阜県可児市)中山道と合流
- 渡し場が土田にあった頃は土田宿が終点だった。時代が下るにつれ渡し場は東に移動し、今渡が終点となる。
- (中山道)伏見宿(岐阜県可児郡御嵩町)
ギャラリー
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