上杉憲基
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時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 元中9年/明徳3年(1392年) |
死没 | 応永25年1月4日(1418年2月9日) |
戒名 | 宗徳院心元海印 |
官位 | 安房守、右京亮 |
幕府 | 室町幕府 関東管領 上野・伊豆守護 |
主君 | 足利持氏 |
氏族 | 山内上杉家 |
父母 | 父:上杉憲定 |
兄弟 | 憲基、佐竹義人 |
子 |
養子:憲春[1](上杉禅秀子)、 憲実(上杉房方子) |
上杉 憲基(うえすぎ のりもと)は、室町時代中期の武士・守護大名。関東管領、上野国・伊豆国守護。山内上杉家7代当主。
生涯
[編集]元中9年/明徳3年(1392年)、上杉憲定の子として誕生。応永19年(1412年)、父の死により家督を継ぐ。
応永22年(1415年)、上杉氏憲(禅秀)が4代鎌倉公方・足利持氏と対立して関東管領を罷免された後、持氏から関東管領に任じられた。しかし翌23年(1416年)、これに不満を抱いた禅秀の反乱(上杉禅秀の乱)が起こり、憲基はこの戦いに敗れて伯父で越後国守護・上杉房方を頼って落ち延びた。その後、4代将軍・足利義持や房方、今川範政らの力を借りて再起を果たし、応永24年(1417年)に禅秀らを滅ぼしている。
しかし戦後、乱の一因を成した責任をとって、同年4月に関東管領職を辞任して剃髪し、伊豆三島に隠棲したが、同年6月に関東管領職に再任されている。翌年1月4日、27歳で死去した。関東管領は房方の子で従弟の憲実が継いだ。