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三輪善兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三輪 善兵衛(みわ ぜんべえ)は、日本の化粧品販売会社丸見屋、のちにミツワ石鹸となる企業の創業家の三代の名跡である。

  1. 初代 三輪善兵衛#初代
  2. 二代 三輪善兵衛#二代目
  3. 三代 三輪善兵衛#三代目

初代

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三輪 善兵衛
Zembei Miwa
生誕 不詳
死没 1884年[1]
職業

実業家


子供 二代目 三輪善兵衛
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初代三輪 善兵衛(みわ ぜんべえ)は、日本の実業家である。

人物・来歴

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尾張国名古屋の出身で、1860年(万延元年)、東京市日本橋区橘町(現在の東京都中央区東日本橋)に、化粧品装身具問屋丸見屋」を開業した。石鹸等の上質な輸入品を販売した[2]

二代目

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三輪 善兵衛
Zembei Miwa
生誕 1871年6月28日
東京市日本橋区橘町
(現在の東京都中央区東日本橋
死没 (1939-05-08) 1939年5月8日(67歳没)
職業

実業家


子供 三代目 三輪善兵衛
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二代目三輪 善兵衛(みわ ぜんべえ、1871年6月28日明治4年5月11日[3] - 1939年5月8日)は、日本の実業家である。

人物・来歴

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1871年(明治4年)、東京市日本橋区橘町(現在の東京都中央区東日本橋)に初代三輪善兵衛の長男・竹次郎(たけじろう)として生まれる[4][3]

1884年(明治17年)、わずか13歳になるころに、家業の小間物問屋「丸見屋」を継いだ[4]。1904年(明治37年)、伊東胡蝶園と販売総代理店として提携し、「御園白粉」を販売、化粧品業界へ進出した[4]。1910年(明治43年)、「ミツワ石鹸」を発売した[4]。1911年(明治44年)、「肝油ドロップ」の発売を開始する。1915年(大正4年)、日本初の香料の研究所「ミツワ化学研究所」を発足した[2]。1925年(大正14年)、伊東胡蝶園との総代理店契約を解消した。東京市淀橋区下落合350番地(現在の東京都新宿区下落合3-10)に邸宅を構えた。

1939年(昭和14年)5月8日、死去した。満69歳没[4]。二代目が発売した「ミツワ石鹸」は、現在でも発売される商品となった。

三代目

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三輪 善兵衛
生誕 1889年12月19日
東京都
死没 (1980-04-15) 1980年4月15日(90歳没)
出身校 早稲田大学 卒業
職業

実業家


配偶者 敏子(武和三郎の次女)
子供 三輪善雄
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三代目三輪 善兵衛(みわ ぜんべえ、1889年12月19日[5] - 1980年4月15日[6])は、日本の実業家である。

人物・来歴

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1889年(明治22年)、二代三輪善兵衛の長男・善太郎(ぜんたろう)として生まれる[3][5]。1912年(明治45年)早稲田大学商学部卒業[5]1939年(昭和14年)5月8日の父・二代目善兵衛の没後、「丸見屋」を継ぐ[2]。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結後、翌1946年(昭和21年)にミツワ石鹸の製造を再開する[2]。1950年(昭和25年)に丸見屋を株式会社に改組して社長となり、1960年(昭和35年)に会長となる。1963年(昭和38年)、日本ABC協会会長に就任。1965年(昭和40年)、勲四等瑞宝章を受章[5]

1980年(昭和55年)4月15日、心不全のため死去[6]。90歳没。

四代目・三輪善雄

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三輪 善雄
生誕 1920年6月8日
東京都
死没 (2000-02-17) 2000年2月17日(79歳没)
出身校 東京帝国大学 卒業
職業

実業家


配偶者 三輪文子 (住友務の妹、住友友純の姪)
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三輪 善雄(みわ よしお、1920年6月8日2000年2月17日)は、日本の実業家である。

人物・来歴

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1920年(大正9年)6月8日、父・三代目善兵衛の長男として、東京に生まれる[7]

1942年(昭和17年)東京帝国大学(現東京大学)経済学部を卒業後、1946年(昭和21年)物価庁に入庁したが、1948年(昭和23年)丸見屋に入社する[5]

1948年(昭和23年)9月3日、28歳のときに、東京商工青年会議所(現、東京青年会議所)の設立メンバーとなり、初代理事長に就任する[7]。1950年(昭和25年)、丸見屋の株式会社への改組により副社長となる[5]

1955年(昭和30年)、丸見屋の工場にオートメーション設備を導入した[7]。初代からの伝統で宣伝に力を入れ、ミツワ石鹸は、1957年(昭和32年)11月3日 - 1966年(昭和41年)4月23日TBSテレビで放映されたテレビドラマ名犬ラッシー』のスポンサーとなる[2]。1960年(昭和35年)、40歳のころに社長に就任した[7]。1964年(昭和39年)、正式社名を石鹸のブランド名から、「ミツワ石鹸株式会社」に変更した。

1975年(昭和50年)、事業継続を断念し、ミツワ石鹸株式会社は倒産した[7]。三代目は55歳であった。

2000年(平成12年)2月17日、死去した[7]。満79歳没。

関連事項

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  1. ^ 『明治大正史 第12巻』明治大正史刊行会、1930年、p.65。
  2. ^ a b c d e #外部リンク欄、ミツワ石鹸公式サイト内の記事「ミツワ石鹸物語」を記述を参照。
  3. ^ a b c 『人事興信録 5版』人事興信所、1918年、み8-9頁。
  4. ^ a b c d e コトバンクサイト内の記事「三輪善兵衛」の記述を参照。
  5. ^ a b c d e f 『大衆人事録 第26版 東日本編』帝国秘密探偵社、1968年、p.981。
  6. ^ a b 『化粧品石鹸年鑑 1981年版』日本商業新聞社、1981年、p.141。
  7. ^ a b c d e f コトバンクサイト内の記事「三輪善雄」の記述を参照。

外部リンク

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