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伊東胡蝶園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
御園白粉から転送)
伊東胡蝶園
本社所在地 日本の旗 日本
東京市麻布区本村町145番地
(現在の東京都港区南麻布3丁目)
設立 1904年
業種 化学
事業内容 化粧品製造販売
代表者 伊東栄
主要子会社 玄文社 1916年 - 1926年
関係する人物 長谷部仲彦
三輪善兵衛
結城禮一郎
佐野繁次郎
花森安治
特記事項:1904年 胡蝶園として創業
1909年 伊東胡蝶園に改称
1948年 株式会社パピリオに改称
1974年 帝人が買収、株式会社帝人パピリオに改称
1987年 アサヒペンが買収
1990年 ツムラが買収、ツムラ化粧品株式会社に改称
1997年 清算
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伊東胡蝶園(いとうこちょうえん、1904年 創業 - 1997年 清算)は、かつて存在した日本の化粧品メーカーである。

「御園白粉」で知られ、出版社「玄文社」を起こして出版事業も行った。第二次世界大戦後の「パピリオ」の前身である。

略歴・概要

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明治の四大覇者

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1900年(明治33年)、岐阜県令長谷部恕連の次男であり、フランス・パリから帰朝した化学者で、東京市京橋区南鍋町2丁目3番地(現在の東京都中央区銀座6丁目)で出版社「十一堂」を営んでいた長谷部仲彦が、日本初の純無鉛で健康を害さず、使用に耐えうる白粉を発明、販売した。同年5月10日皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の成婚の際に献上した。

胡蝶平氏揚羽紋から。

1904年(明治37年)、長谷部が、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに学んだ「近代医学の父」こと伊東玄朴の四男・伊東栄(初代、1847年‐1911年)と組み、東京市芝区(現在の東京都港区芝)で「胡蝶園」を創業、大正天皇夫妻に献上したことから「御料御園白粉」と命名して製造し、1906年(明治39年)からのちに「ミツワ石鹸」で知られる三輪善兵衛丸見屋が販売した。紙箱は四谷区(現在の新宿区四谷)の「尚山堂」(現在の東京紙器株式会社)が製造・納品した[1]

「胡蝶」とは、胡の国の蝶のことで、アゲハチョウをさす。のちに商標となり社名ともなった「パピリオ」は、アゲハチョウの学名Papilioに由来する。

化粧品業界で、「白粉の御園」は、「歯磨のライオン」(「獅子印ライオン歯磨」、小林富次郎商店)、「クリームのレート」(平尾賛平商店、1954年倒産)、「クラブの洗粉」(中山太陽堂)とならぶ「明治の四大覇者」と呼ばれた[2]

御園白粉」 明治37年(1904)に、伊東胡蝶園から発売された無鉛白粉。明治の末頃までは、役者や芸者を中心に、使用感、仕上がりのよさから、鉛中毒をもたらす鉛白粉が使われていた。豊とよほぎのまい寿舞(二人の巫女が雄蝶と雌蝶にそれぞれ扮して舞う)が描かれ、「御料御園白粉 東京芝 胡蝶園謹製 発賣元丸見屋商店」と記された広告が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「御園白粉」より抜粋[3]

二代目のころ

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1909年(明治42年)に「伊東胡蝶園」に商号変更した。1911年(明治44年)2月23日、初代伊東栄が死去、1873年(明治6年)8月生まれ、慶應義塾東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した長男・謙吉(1873年 - 1929年)が二代目伊東栄を襲名、社長に就任する。1916年(大正5年)12月22日、薄田泣菫が『大阪毎日新聞』夕刊に連載していた『茶話』の第211話『狂人の書』に登場している「伊東玄朴の孫」とは、二代目のことである。

1916年(大正5年)に同社は、出版社「玄文社」を設立、主幹に結城無二三の長男で元『國民新聞』記者、元『東京毎夕新聞』主幹、元『帝国新聞』主幹の結城禮一郎を採用した。玄文社は『新演芸』(主筆岡村柿紅)、『新家庭』、『花形』、『詩聖』といった雑誌を発行、多数の書籍を出版した。同社の編集者には鈴木泉三郎長谷川巳之吉仲木貞一内山佐平服部普白堀川寛一小林徳二郎らがいた。同社は、1926年(大正15年)ごろ廃業している。

1921年(大正10年)「御園コールドクリーム」を発売、1925年(大正14年)、丸見屋との総代理店契約を解消し、伊東胡蝶園が販売も行う。同年「御園コンパクト」を発売。1926年(大正15年)、「新御園白粉」を発売した。

1929年(昭和4年)7月28日、二代目伊東栄が57歳で死去する。1934年(昭和9年)7月、三代目伊東栄が『父とその事業』(伊東胡蝶園)を執筆、同社が発行した。

パピリオ。写真はキアゲハ、学名Papilio machaon

同社が無鉛白粉を始めて30年、無鉛はすっかり主流になり、1930年(昭和5年)に有鉛白粉の製造禁止、1934年(昭和9年)に販売禁止となり、無鉛白粉の競争が激化する。このころ洋画家の佐野繁次郎が入社、「パピリオ」のロゴデザインを手がけた。同時期、のちの『暮らしの手帖』編集長、花森安治が宣伝部に入社、佐野に師事した。1933年(昭和8年)、「御園つぼみ白粉」を発売、1935年(昭和10年)、「パピリオ白粉」発売、「パピリオ」ブランドがスタートする。1936年(昭和11年)には「パピリオ口紅」を発売した。

第二次世界大戦後

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1948年(昭和23年)、「株式会社パピリオ」に改称した。1950年(昭和25年)、マネキン宣伝を開始。

1974年(昭和49年)、帝人がパピリオを買収、由比盛靖が社長に就任、「株式会社帝人パピリオ」となった。由比は翌1975年(昭和50年)10月27日、社団法人麻布法人会の第4代会長に就任した。

1987年(昭和62年)、アサヒペンが帝人から帝人パピリオを買収、「パピリオ」はアサヒペンの化粧品部門のブランドとなったが、やがて化粧品部門から撤退、1990年(平成2年)、ツムラがアサヒペンからパピリオを買収、「ツムラ化粧品株式会社」を設立も、1997年(平成9年)にはツムラ化粧品は清算された。

2004年(平成16年)、映画『君の名は』(1953年 - 1954年)とのタイアップや「オリリーカバーマーク」で知られる、大阪の化粧品メーカーピアスが「パピリオ」の商標権を獲得し、新会社パピリオを設立したが、これは「胡蝶園」に始まる歴史とは資本的にも人的にも一切関係がない。

おもなビブリオグラフィ

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  • 雑誌『新演芸』 (玄文社、主筆岡村柿紅
  • 雑誌『新家庭』 (玄文社)
  • 雑誌『花形』 (玄文社)
  • 雑誌『詩聖』 (玄文社)
  • 伊東胡蝶園・丸見屋商店広告部編『緞帳図案集 歌舞伎座緞帳懸賞図案』(芸艸堂、1929年)
  • 伊東栄『父とその事業』(伊東胡蝶園、1934年7月)

関連事項

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  1. ^ 東京抜型工業会編『東京抜型工業会25年記念誌』(東京抜型工業会、1988年)の記述を参照。
  2. ^ クラブコスメチックス公式サイト「株式会社クラブコスメチックス」の記事「資料室」の記述を参照。
  3. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「御園白粉」国立国会図書館蔵書、2018年2月10日閲覧

外部リンク

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