三条実永
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 応長2年2月28日(1312年4月13日) |
官位 | 従二位、参議 |
主君 | 後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流三条家 |
父母 | 父:三条公泰、母:橘知茂の娘 |
兄弟 | 実盛、実永、公雅、実海、公聖、実尊、実顕、忠海、行讃、権大納言局[1] |
子 | 公雅(養子)[2] |
三条 実永(さんじょう さねなが)は、鎌倉時代の公卿。参議、従二位。父は権中納言三条公泰、母は橘知茂の女。異母兄である三条実盛は浅原事件に関与が疑われた。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』および『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 文永3年(1266年)4月21日、叙爵。
- 文永4年(1267年)2月1日、侍従に任ぜられる。
- 文永5年(1268年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 文永6年(1269年)3月27日、右少将に任ぜられる。
- 文永7年(1270年)1月5日、正五位下に昇叙。同月21日、出羽権介を兼ねる。
- 文永8年(1271年)1月5日、従四位下に昇叙[3]。同年2月1日、右少将に還任。
- 文永11年(1274年)10月3日、右中将に転任。
- 建治元年(1275年)12月26日、従四位上に昇叙。
- 建治3年(1277年)1月29日、但馬権介を兼ねる。
- 建治4年(1278年)2月10日、正四位下に昇叙。
- 弘安8年(1285年)8月19日、皇后宮権亮を兼ねる。
- 正応元年(1288年)11月8日、蔵人頭に補される。
- 正応2年(1289年)1月13日、参議に任ぜられる。右中将と皇后宮権亮は元の如し。従三位に叙されるか。
- 正応3年(1290年)1月13日、土佐権守を兼ねるが、同月29日に参議を辞退した。同年3月9日、浅原事件が起こり 浅原為頼が自害に用いた刀「鯰尾」が実盛の家に伝わるものと判明し、3月10日に実盛は六波羅探題によって捕縛された[4][5]。
- 正応4年(1291年)2月、土佐権守を止める。
- 永仁元年(1293年)1月13日、正三位に昇叙。
- 正安元年(1299年)1月25日、従二位に昇叙。
- 嘉元3年(1305年)8月、父公泰の喪に服す。同年9月出家。
- 応長2年(1312年)2月28日、薨去。三条と号す。
系譜
[編集]- 父:三条公泰(1231-?)
- 母:橘知茂の娘
- 妻:不詳
- 養子
- 男子:三条公雅 - 三条公泰の子