三条実盛
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 嘉元2年7月22日(1304年8月23日) |
官位 | 従三位、参議、右中将 |
主君 | 後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流三条家 |
父母 | 父:三条公泰、母:実忠の娘 |
兄弟 | 実盛、実永、公雅、実海、公聖、実尊、実顕、忠海、行讃、権大納言局[1] |
子 | 公久、公直、公定 |
三条 実盛(さんじょう さねもり)は、鎌倉時代の公卿。従三位参議右中将。父は権中納言三条公泰、母は正四位下実忠の女。伏見天皇暗殺を企てた浅原事件で関与が疑われた。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』及び『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 建長5年(1253年)9月2日、叙爵。
- 建長7年(1255年)12月24日、侍従に任ぜられる。
- 康元2年(1257年)1月6日、従五位上に昇叙。
- 正嘉2年(1258年)4月6日、右少将に任ぜられる。
- 文応元年(1260年)8月3日、正五位下に昇叙。
- 弘長2年(1262年)1月19日、従四位下に昇叙。
- 文永元年(1264年)1月17日、右少将に還任。
- 文永3年(1266年)4月27日、従四位上に昇叙[2]。
- 文永4年(1267年)2月2日、右中将に転任。同年6月23日、皇后宮権亮を兼ねる。
- 文永5年(1268年)1月29日、播磨介を兼ねる。
- 文永6年(1269年)1月5日、正四位下に昇叙。
- 文永9年(1272年)7月11日、出羽権介を兼ねる。
- 弘安3年(1280年)3月16日、美濃介を兼ねる。
- 弘安8年(1285年)3月6日、蔵人頭に補せられる。この年、母の喪に服す。
- 弘安9年(1286年)1月13日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。同年8月14日、従三位に昇叙。
- 弘安10年(1287年)1月13日、参議を辞した。同年4月30日、本座を許される。
- 正応3年(1290年)3月9日、浅原事件が起こり 浅原為頼が自害に用いた刀「鯰尾」が実盛の家に伝わるものと判明し、3月10日に実盛は六波羅探題によって捕縛された[3][4]。
- 嘉元2年(1304年)7月22日、薨去。三条と号す。
系譜
[編集]- 父:三条公泰(1231-?)
- 母:正四位下実忠の娘
- 妻:不詳
- 男子:公久
- 男子:公直
- 男子:公定