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三屋裕子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三屋 裕子
Yuko Mitsuya
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1958-07-29) 1958年7月29日(66歳)
出身地 福井県勝山市
ラテン文字 Yuko Mitsuya
身長 177cm
体重 61kg
血液型 A型
選手情報
愛称 サイ
ポジション センター
指高 228cm
利き手
スパイク 308cm
ブロック 293cm
獲得メダル
オリンピック
女子 バレーボール
1984 バレーボール
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三屋 裕子(みつや ゆうこ、1958年7月29日[1] - )は、日本バスケットボール協会代表理事。1984年ロサンゼルスオリンピックバレーボール全日本代表選手。福井県勝山市出身。筑波大学大学院体育学研究科修了。

国際バスケットボール連盟セントラルボードメンバー。日本バスケットボール協会会長。日本オリンピック委員会副会長。株式会社サイファ代表取締役。藤田観光株式会社社外取締役。株式会社デンソー社外取締役株式会社パロマ社外取締役。株式会社福井銀行社外取締役。ENEOSホールディングス株式会社社外取締役。筑波スポーツ科学研究所副所長。株式会社BSフジ放送番組審議会委員。株式会社テン・アローズ(旧シャルレ代表執行役社長、株式会社シャルレ(旧シャルレから分割設立)代表取締役社長らを歴任。

来歴 

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中学(福井県勝山市立勝山中学校)からバレーボールを始め、八王子実践高校から筑波大学体育専門学群[2]に進学する。1981年日立女子バレーボール部に入部。ユニバーシアードに3度出場し、1979年には銀メダル獲得。日立、全日本代表の主軸選手として活躍し、1983年アジア選手権で優勝。1984年ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。

最高到達点308cmという高さを誇り、攻撃型のセンタープレイヤーとして活躍した。現役時代のニックネームは三ツ矢サイダーのサイからとった「サイ」

引退後は、國學院高等学校の教師を経て、1985年から学習院大学助手、1987年に同大学講師に就任した。同大学バレー部の指導をする傍ら、全日本ジュニアチームのコーチを務めた。1990年筑波スポーツ科学研究所主任研究員・非常勤講師に就任。1992年、筑波大学大学院に進学し、その後、筑波スポーツ科学研究所副所長に就任した。

2004年4月、女性下着の訪問販売会社シャルレ(のちのテン・アローズ)の社会貢献活動に参加していたことがきっかけで同社顧問となり、同年6月29日付で社長に就任。しかし業績悪化や経営方針の違いから創業家と対立、2007年6月27日、テン・アローズ(旧シャルレ)と子会社のシャルレ両社の株主総会にて、両社の社長職を解任される。この時、三屋は記者会見で「1980年モスクワオリンピックで、ボイコットにより出場出来なかった時と同じような気分」と涙ながらに語った。

2006年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事。2007年4月から日本バレーボール協会理事(2013年6月まで)。2013年4月には、同協会の女子育成強化委員会ディレクターに就任した[3]。2014年6月から日本バレーボール協会評議員。2015年5月、日本バスケットボール協会副会長に就任[4]。2016年6月、日本バスケットボール協会会長に就任[5]。2017年5月、国際バスケットボール連盟理事に就任[6]、2019年8月、理事に再任された(2期目、2023年の改選まで)[1]。また、スポーツコメンテーターとして、テレビ出演等で活躍している。 2020年6月28日、日本バスケットボール協会会長に再任された(3期目で、任期は2021年9月まで)[7]。2021年6月26日日本オリンピック委員会副会長[8]。2023年6月、日本航空(株) 社外取締役就任。2023年7月、東京2025世界陸上財団評議員[9]

他に、関口宏の『サンデーモーニング』の出演者としてかつてレギュラー出演した特番、オールスター感謝祭では記念すべき最初のピリオドボーナスクイズ賞金獲得者でもある。1991年秋放送にて50万円を手にした。30年間続く番組での最初の獲得者だった(総合優勝は達成していない)。

球歴・受賞歴

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  • 受賞歴
    • 1981年 - 第15回日本リーグ ベスト6
    • 1982年 - 第16回日本リーグ スパイク賞、ベスト6
    • 1983年 - 第17回日本リーグ スパイク賞、ベスト6

著書

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テレビ出演

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ラジオ出演

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脚注

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外部リンク

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