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第一丁卯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
丁卯丸から転送)
第一丁卯
基本情報
建造所 イギリスの旗 イギリスロンドン[1]
運用者 長州藩
 大日本帝国海軍
艦種 砲艦[2]
建造費 買価:110,000ドル[3]
艦歴
竣工 1867年[1]
就役 慶応4年1月(1868年1月から2月)長州藩が購入
明治3年5月8日(1870年6月6日)献納[4]
最期 1875年8月9日破壊[5]
要目
排水量 236 トン[6]
長さ 123 尺 8 寸 (34.49m)[1]
または、36.58 m[6]
21 尺 8 寸 (6.61m)[1]
または、6.40 m[6]
吃水 2.29 m[6]
ボイラー×2基[7]
主機 横置直動レシプロ×1基[6]
推進 1軸[7]
出力 60馬力 (45 kW)[2](IHP)[6]
帆装 3トップスル・スクーナー[2]
速力 5 ノット[6]、または3.0 ノット[5]
乗員 1873年10月定員:65名[8]
1874年時総員:16名[9]
兵装
  • 砲×6門[10][4][注釈 1][注釈 2]
  • 1874年時[11]
    60ポンド・ヘトロッケン砲×1門
    40ポンド・フレッケレー砲×1門
    20ポンド・フレッケレー砲×2門
その他 船材:[12]
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第一丁卯(だいいちていぼう[4]、だいいちていばう(旧仮名)[12])は日本海軍軍艦[10]。元は長州藩の発注した三檣スクーナー型木造汽船[4]

丁卯十干十二支のひとつで、幕末では慶応3年(1867年)に当たる[4]。この年にイギリスで建造された長州藩の軍艦が後の「第一丁卯」と「第二丁卯となる。長州藩では建造年で命名する決まりがあったため、第一と第二を付加して区別したと思われる[4]

艦型

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要目

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右上表の要目中、主要寸法は『幕末の蒸気船物語』[6]や『公文類纂』[1]等による。排水量を125トンとする資料が多いが主要寸法が正しいとすると、明らかに間違いになる[13]。船体の主要寸法も出典により差違があり、以下に主な文献の値を掲げる。

  • 『日本近世造船史 明治時代』:長さ126 ft (38.40 m)、幅21 ft (6.40 m)、吃水欄空白[2]
  • 『日本海軍艦船名考』(1928):長さ126尺(38.18m)、幅21尺(6.36m)[12]
  • 『日本海軍史』第7巻:長さ39.4m、幅6.6m、吃水2.4m[5]

艦歴

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長州藩は1866年にグラバーと「第二丙寅丸」を15万ドルで売却して砲艦2隻(「第一丁卯」、「第二丁卯」)を計25万ドル(ここから2万ドル値引きさせたという)で建造する契約を結んだ[14]

建造時の仮称は「ヒンダ 」(Hinda)[15][6](または「ベンダ[4])。イギリスロンドンで建造[1]

慶応4年1月(1868年1月から2月)に長州藩が購入、当初の艦名は「丁卯丸」と呼ばれた[3]。別の文献では発注が慶応2年(1866年)で、竣工と日本回航が慶応4年(1868年)という資料もあるという[4]

慶応4年2月20日(1868年3月13日)に明治政府が徴発し、5月(7月)の寺泊沖海戦で旧幕府輸送艦「順動丸」を自沈に追い込む。明治2年3月8日(1869年4月19日)、「甲鉄」「陽春丸」「春日丸」「飛龍丸」「第一丁卯」「戊辰丸」「晨風丸」「豊安丸」の8隻が品川を出港、函館へ向かい[16]、5月の箱館湾海戦に参加した[17]

明治3年(1870年)に政府に献納され[注釈 3]。、5月8日(6月6日)に兵部省所管となり「第一丁卯(艦)」と改名された。5月(6月頃)、イギリスの測量船と共に南海の測量を開始した[19]。測量は11月(12月から翌年1月)に終了し、第一丁卯は神戸に到着した[20]

明治4年5月(1871年6月から7月)、「日進」「」「乾行」「第二丁卯」「龍驤」「富士山」「第一丁卯」で小艦隊を編制する[21]。11月15日(12月26日)に六等艦と定められた。

明治5年5月18日(1872年6月23日)時点で中艦隊は「日進」「孟春」「龍驤」「第一丁卯」「第二丁卯」「雲揚」「春日」「筑波」「鳳翔」の9隻で編制されていた[22]。5月10日(6月15日)、「第一丁卯」は西海巡幸の警護艦を命ぜられ[23]、5月23日(6月28日)に品川を出港した[24]。7月4日(8月7日)、鹿児島港を出港し[25]、7月10日(8月13日)に兵庫港に入港し[23]、同地で石炭を搭載した[24]。11月26日(12月26日)、品川に帰着した[24]

1873年(明治6年)1月12日、「第一丁卯」は艦隊から除かれ[26]、測量艦に指定された[27]。同日に琉球海岸の測量を命じられ、2月12日に品川を出港した[27]。また2月13日、各港に常備艦を配置することになり、「第一丁卯」は品川に指定された[28]。7月31日、琉球海岸の測量を終えて、品川に帰港した[29]。8月18日、測量艦任務を解かれ、8月22日に艦隊に編入された[30]。10月28日、第一丁卯は艦隊から除かれ[26]、修復艦に指定された[31]。11月4日、修理中の第一丁卯は主船局の所轄となった[32]

1874年(明治7年)9月18日、第一丁卯は艦隊に編入された[33]

1875年(明治8年)6月30日時点で中艦隊は「雲揚」「日進」「春日」「龍驤」「東」「鳳翔」「第一丁卯」で編制されていた[34]。この年、ラッコ密漁取り締まりの為に択捉島に派遣されていたところ、8月9日に濃霧のために針路を誤り、同島西岬(または同島東岸[35])に座礁して破壊された[4]。乗員は「矯龍丸」により救助された[36]。なお当時の艦長は後に日清戦争で第一遊撃隊司令官となる坪井航三だった[4]。1877年(明治10年)12月12日、「第一丁卯」と「雲揚」(1876年破壊)についての臨時裁判が開かれている[37]

艦長

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船将
  • 山縣久太:明治2年3月8日時[16]
艦長
  • 杉盛道:明治3年3月(1870年4月)[38] - 明治4年10月2日(1871年11月14日)[39][注釈 4]
  • 伊東祐亨大尉:明治4年11月(1871年12月から翌年1月)[41] - 明治5年2月(1872年3月頃)[42]
  • 磯辺包義大尉:明治5年3月8日(1872年4月15日)[43][注釈 5] - 明治5年10月10日(1872年11月10日)[44]
  • 浅羽幸勝大尉: 明治5年10月20日(1872年11月20日)[44] -
  • 磯辺包義大尉: - 1873年1月12日[45]
  • 中村雄飛大尉:1873年1月12日[27] - 1873年8月19日[30]
  • 磯辺包義大尉:1873年8月23日[30] - 1873年10月28日[45][31]
  • 中島伴九郎大尉:1873年11月9日[32] -
  • 磯邉包義大尉: - 1873年12月28日[46]
  • 中島伴九郎大尉: - 1874年8月13日[47]
  • 坪井航三 少佐:1874年8月13日[47] - 1876年3月9日[48]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本海軍史』第7巻pp.224-225では、砲8門としている。
  2. ^ 元綱 2004, pp. 141–142には5.9インチ砲×1門、5.5インチ後装砲×1門とある
  3. ^ 『海軍省報告書』では4月29日(5月29日)に山口藩から献上としている[18]
  4. ^ または明治4年9月25日(1871年11月7日)[40]
  5. ^ または明治5年3月5日(1872年4月12日)

出典

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  1. ^ a b c d e f #M7公文類纂13/管轄(1)画像22、所管艦船
  2. ^ a b c d 造船史明治 1973, p. 129.
  3. ^ a b #海軍歴史23船譜(1)画像13
  4. ^ a b c d e f g h i j 片桐 2014, pp. 202–203.
  5. ^ a b c 『日本海軍史』第7巻pp.224-225
  6. ^ a b c d e f g h i 元綱 2004, pp. 141–142.
  7. ^ a b #機関史(1975)別冊附表2-1(表3)、我海軍機関発達大体年表
  8. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.153-155、明治6年10月闕月(軍務局)艦船乗組定員
  9. ^ #M7公文類纂13/管轄(1)画像35
  10. ^ a b #近世帝国海軍史要(1974)p.883
  11. ^ #M7公文類纂13/管轄(1)画像46-47
  12. ^ a b c 浅井 1928, pp. 23–24、丁卯 ていばう teibô
  13. ^ 元綱 2004, p. 141.
  14. ^ 杉山伸也『明治維新とイギリス商人』89、94ページ
  15. ^ 『日本海軍史』第7巻p.462。
  16. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像8-9、明治二年己巳 軍務官 兵部省、3月。
  17. ^ #M1-M9海軍省報告書画像9、明治二年己巳 軍務官 兵部省、5月。
  18. ^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年4月。
  19. ^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年5月。
  20. ^ #M1-M9海軍省報告書画像14、明治3年11月。
  21. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治4年
  22. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治5年
  23. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像27-29、明治5年5月。
  24. ^ a b c #M1-M9海軍省報告書画像33-35、明治5年11月。
  25. ^ #M1-M9海軍省報告書画像30、明治5年7月。
  26. ^ a b #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治6年
  27. ^ a b c #M1-M9海軍省報告書画像36-37、明治6年1月。
  28. ^ #M1-M9海軍省報告書画像37-38、明治6年2月。
  29. ^ #M1-M9海軍省報告書画像41-42、明治6年7月。
  30. ^ a b c #M1-M9海軍省報告書画像42、明治6年8月。
  31. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像43-44、明治6年10月。
  32. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像44-45、明治6年11月。
  33. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治7年
  34. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治8年
  35. ^ #M1-M9海軍省報告書画像67-68、明治8年8月。
  36. ^ 『函館海運史』217ページ
  37. ^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像16-18、明治10年12月沿革
  38. ^ #M1-M9海軍省報告書画像12、明治3年3月。
  39. ^ 『日本海軍史』第10巻、144頁。
  40. ^ #M1-M9海軍省報告書画像19-20、明治4年9月。
  41. ^ #M1-M9海軍省報告書画像21、明治4年11月。
  42. ^ 『日本海軍史』第9巻、7頁。
  43. ^ #M1-M9海軍省報告書画像25-26、明治5年3月。
  44. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像32-33、明治5年10月。
  45. ^ a b 『日本海軍史』第9巻、665頁。
  46. ^ #M1-M9海軍省報告書画像45-47、明治6年12月。
  47. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像55-56、明治7年8月。
  48. ^ 『日本海軍史』第9巻、315頁。

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。 (国立公文書館)
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091300。 (国立公文書館)
    • 『公文類纂 明治7年 巻13 本省公文 艦船部1/管轄(1)』。Ref.C09112101900。 
    • 『海軍歴史 巻之23 船譜(1)』。Ref.C10123646500。 (勝海舟『海軍歴史』巻23。)
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍有終会/編『近世帝国海軍史要(増補)』 明治百年史叢書 第227巻、原書房、1974年4月(原著1938年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 齊藤虎之介(編)『函館海運史』函館市、1958年
  • 杉山伸也『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』岩波書店、1993年、ISBN 4-00-430290-0
  • 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店、2004年4月。ISBN 4-425-30251-6 

関連項目

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