戊辰丸
慶応4年8月にイギリスのグラバー商会を介して98600両で購入した木製螺旋汽船で、原名は「ヒリピノ Filipino」[2]。1866年にグラスゴーで建造[2]。2檣で、総トン数518.81トン、長さ195尺、幅26尺、深さ14尺、機関出力120馬力であった[2]。または、明治元年1月に125,000ドルで購入[1]。鉄製の船で、全長約70メートル、積載量450トンであり、購入4年前の建造であった[1]。
明治2年2月3日、「戊辰丸」は徳島から東京へ向け出航[3]。その後政府に徴用され[3]、戊辰戦争で宮古湾海戦に参加する。
3月9日に「甲鉄」以下、「戊辰丸」を含め8隻が品川より出航し、3月18日から20日にかけて宮古湾に到着した[4]。それに対して蝦夷共和国側は「甲鉄」奪取を計画[5]。「回天」以下3隻が出撃したが、結局襲撃は「回天」単艦によるものとなった[6]。「回天」は3月25日に宮古湾に入り「甲鉄」を襲撃し、交戦したが、結局奪取には失敗し撤退した[7]。「甲鉄」近くに碇泊していた「戊辰丸」は「回天」の砲撃で損傷し、東京に戻ることとなった[8]。この戦闘での「戊辰丸」の人的被害は行方不明者14名、負傷者3名であった[9]。
明治2年9月28日、徴用解除となった「戊辰丸」は東京から徳島へ向かった[3]。
「戊辰丸」は商船として藍玉輸送などに従事している[1]。既述のものを含め、明治3年7月までに徳島・東京間で4往復半の航海を行い、東京行きでは5回の航海で藍玉約6268本、旅客31人などを、徳島行きでは3回の航海で正金12900両、金札7700両、旅客38人などを輸送した[10]。
廃藩置県後は蜂須賀家の所有となり[1]、明治5年10月に戊辰丸商法方政策御用掛商人であった井上三千太に3万両で払い下げられ、「鵬翔󠄁丸」と改名された[11]。西南戦争時、「鵬翔󠄁丸」は徴発された[12]。
明治14年11月21日、陸奥国三戸郡鮫村湾に碇泊していた「鵬翔󠄁丸」は悪天候のため難破した[13]。
参考文献
[編集]- 大山柏『戊辰役戦史 下』時事通信社、1968年
- 天野雅敏「維新期の徳島藩商法方政策と藩有汽船戊辰丸について」日本水上交通史論集 第3巻 (瀬戸内海水上交通史)、文献出版、1989年、239-285ページ
- 山川浩實「徳島藩の蒸気船―セントロイス号など購入の顛末―」徳島県立博物館(2023年4月5日閲覧)
脚注
[編集]- ^ a b c d e 「徳島藩の蒸気船―セントロイス号など購入の顛末―」
- ^ a b c 「維新期の徳島藩商法方政策と藩有汽船戊辰丸について」245ページ
- ^ a b c 「維新期の徳島藩商法方政策と藩有汽船戊辰丸について」248ページ
- ^ 『戊辰役戦史 下』734ページ
- ^ 『戊辰役戦史 下』735ページ
- ^ 『戊辰役戦史 下』735-736ページ
- ^ 『戊辰役戦史 下』736-738ページ
- ^ 『戊辰役戦史 下』739ページ
- ^ 『戊辰役戦史 下』740ページ
- ^ 「維新期の徳島藩商法方政策と藩有汽船戊辰丸について」249-251ページ
- ^ 「維新期の徳島藩商法方政策と藩有汽船戊辰丸について」268-270ページ
- ^ 「維新期の徳島藩商法方政策と藩有汽船戊辰丸について」272ページ
- ^ 「維新期の徳島藩商法方政策と藩有汽船戊辰丸について」272-273ページ