ヴァルラム1世 (リンブルフ伯)
ヴァルラム1世 Walram I. | |
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リンブルフ伯 | |
在位 | 1065年 - 1082年 |
死去 |
1082年以前 |
配偶者 | ユッタ(ユーディト)・フォン・ニーダーロートリンゲン |
子女 |
ハインリヒ1世 コンラート |
家名 | リンブルフ家 |
父親 | アルロン伯ヴァルラム1世 |
母親 | アーデルハイト・フォン・オーバーロートリンゲン |
ヴァルラム1世(Walram I., ? - 1082年以前)は、アルロン伯(2世)およびリンブルフ伯(1世、在位:1065年 - 1082年)。アルロン伯ヴァルラム1世と上ロートリンゲン公ディートリヒ1世の娘アーデルハイトの息子。リンブルフ城を建設したともされる[1]。アルデンヌ=ルクセンブルク家の下ロートリンゲン公フリードリヒの娘ユッタ(ユーディト)と結婚した。
出自
[編集]リンブルフ=アルロン家の初期の系譜としてアルロン伯ヴァルラム1世 - アルロン伯ヴァルラム2世 - ハインリヒ1世と伝わる[1][2][3]。初代リンブルフ伯(1世)となったアルロン伯ヴァルラム2世とリンブルフの女子相続人ユッタ・フォン・ニーダーロートリンゲンの息子がハインリヒ1世である。
一方でアルロン伯ヴァルラム2世が生存していた1061年ごろの記録に、「リンブルフ伯ウド(egregrius comes Udo de Lemborch)」という名が確認される。このためヴァルラム2世とウドは同一人物と考えられ、しばしばヴァルラム=ウドの名で記されることがある[4][5]。
しかし、他の文献には異なった系譜が示されている[6]。これによるとアルロン伯ヴァルラム2世とウドは別人であり、ヴァルラム2世はアルロン伯でユッタの夫であるが、リンブルフ伯とは記されていない。ウドは1061年ごろのリンブルフ伯で下ロートリンゲン公フリードリヒの弟ザルム伯ギゼルベルトの娘ユッタと結婚したという[6]。そしてアルロン伯領とリンブルフ伯領の統合は初代リンブルフ伯(おそらくウド)の息子ハインリヒ1世がアルロン伯ヴァルラム2世の女子相続人と結婚したことによりなされたという。そしてこの女子相続人が(アーデルハイト・フォン・ポッテンシュタインではなく)、ハインリヒ1世の子供達の母親であるという[6]。
子女
[編集]リンブルフ伯ヴァルラム1世(あるいはウド)の子として以下の2男がいる。
- ハインリヒ1世(1059年 - 1119年頃) - リンブルフ伯、下ロートリンゲン公
- コンラート・フォン・メルハイム(1088年以降没)
脚注
[編集]- ^ a b Grote 1877, Tafel 199.
- ^ Bahnson 1912, p. 14.
- ^ Freytag von Loringhoven 1964, Tafel 107.
- ^ Brandenburg 1998, p. 67, Tafel 33.
- ^ Glocker 1989, p. 343.
- ^ a b c Schwennicke 1999, Tafel 229.
参考文献
[編集]- Schwennicke, Detlev (1999). Europäische Stammtafeln. Band I.2, Tafel 229
- Grote, Hermann (1877). Stammtafeln. Mit Anhang: Calendarium medii aevi (= Münzstudien. Bd. 9). Leipzig: Hahn, Tafel 199
- Bahnson, Wilhelm (1912). Stamm- und Regententafeln zur politischen Geschichte. Band III. p. 14
- Freytag von Loringhoven, Frank (1964). Europäische Stammtafeln. Stammtafeln zur Geschichte der europäischen Staaten. Band III, Tafel 107
- Brandenburg, Erich (1998). Die Nachkommen Karls des Großen. Verlag Degener & Co Neustadt an der Aisch. p. 67, Tafel 33
- Glocker, Winfrid (1989). Die Verwandten der Ottonen und ihre Bedeutung in der Politik. Köln, Wien: Böhlau Verlag. p. 343
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