ディートリヒ1世 (上ロートリンゲン公)
ディートリヒ1世 Dietrich I von Lothringen | |
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上ロートリンゲン公 バル伯 | |
在位 | 978年 - 1026/7年 |
出生 |
965年頃 |
死去 |
1026年4月11日/1027年1月2日 |
配偶者 | リヒルデ・フォン・ブリースガウ |
子女 |
フリードリヒ2世 アダルベロ アーデルハイド ヒルデガルド |
家名 | アルデンヌ=バル家 |
父親 | 上ロートリンゲン公フリードリヒ1世 |
母親 | ベアトリクス・フォン・フランツィーン |
ディートリヒ1世・フォン・ロートリンゲン(独:Dietrich I von Lothringen, 965年頃 - 1026年4月11日/1027年1月2日)フランス語名はティエリー1世・ド・ロレーヌ(仏:Thierry Ier de Lorraine)は、上ロートリンゲン公フリードリヒ1世とその妃ベアトリクス・フォン・フランツィーン(ユーグ・カペーの実姉)の息子。父が死去した978年以降、1026年または1027年まで上ロートリンゲン公およびバル伯であった。
生涯
[編集]当時の慣習によれば、16歳以上の公子・伯子は独立して統治することができ、ディートリヒは少なくとも父と死別した当時は間違いなく20歳程であったが、987年までは母ベアトリクスが摂政として実質上ロートリンゲン公国を統治していた。
ベアトリクスの生存記録がなくなった989年以降、ディートリヒは名実ともにロートリンゲン公となるべく、母を何らかの方法で統治から退けたとされる。諸説あるが、ベアトリクスを修道院に幽閉した、もしくは毒殺した説が存在している。
985年、ディートリヒはヴェルダンで西フランク王ロテールが率いる軍と戦うが、敗退し、捕虜となり投獄された。
後に釈放されたが、しばらくして、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世とルクセンブルク家がメッツ領を巡る紛争が起こり、ディートリヒは参戦して重傷を負った際、宮中伯エッツオ・フォン・ロートリンゲンに捕らえられ、再び投獄された。
ディートリヒはエッツオが所有していたトンブルク城に幽閉され、釈放の代償に多額の保釈金を支払わされた。
後、ディートリヒはブルグント公国で再び捕らえられたが、シャンパーニュ伯ウード2世・ド・ブロワにトゥールを攻撃された時は相手を撃破している。
1024年に、ディートリヒはそれまで対立していたコンラート2世を新たな皇帝として認め、支持者となった。
晩年、ディートリヒは息子フリードリヒを後継者としていたが、フリードリヒは1026年に父に先立って死去した。その後、ディートリヒは1026年4月11日から1027年1月2日の間に死去した。公位は孫のフリードリヒ3世が継承した。
結婚・子女
[編集]ディートリヒはリュネヴィル・メッツ伯フォルマー1世の娘と思われるリヒルデ・フォン・ブリースガウ(965年頃 - 995年)と結婚し、以下の子女をもうけた。
- フリードリヒ2世(995年頃 - 1026年) - 上ロ-トリンゲン公(父と共治)
- アダルベロ(? - 1006年) - 1005年に伯父アダルベロ2世の後継者としてメッツ司教に指名されたが、叙階の直後1006年に死去した。
- アーデルハイト - アーロン伯ヴァルラム1世と結婚。
- ヒルデガルト(? - 1046年) - アンジュー伯フルク3世と結婚。
妃リヒルデは以下の子孫であるとされる。
- フォルマー1世・フォン・ブリースガウ(920年頃 - 996年以前) - メッツ伯およびリュネヴィル伯、ベルタ(940年頃 - 996年以降)と結婚。
- フォルマー・リュネヴィル(900年頃 - 980年以降)
- フォルマー・フォン・ヴォルムス(865年頃生) - リヒルデと結婚
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