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ロシア化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ロシア化(ロシアか、ロシア語русификация英語Russification)とは、ロシア人が非ロシア諸民族を同化融合する政策および過程である。

概要

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国の政策として19世紀ロシア帝国20世紀ソ連、そして21世紀ロシア連邦と親ロシア派の政府が治める隣国などで用いられ、ロシアが支配していたフィンランドバルト三国ポーランドベラルーシウクライナモルドバコーカサス地方、中央アジアシベリア地方、東アジアなどにおいて実行されたことがある。ロシア化の方法には、非ロシア語教育の制限およびロシア語教育の導入、キリル文字の強制導入、ロシア語の国際化の促進、教育・報道機関による文化的・政治的教化ロシア正教の布教と非ロシア正教の宗教団体への弾圧などが用いられた。

日本語での用法

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日本語で「ロシア化」という言葉が一般に使用された最近の事例は北方領土問題でのマスメディアの報道である。日本政府が固有の領土と主張している北方領土は、1945年以降ソビエト連邦(ソ連)が実効支配し、ソ連崩壊後はロシア連邦の実効支配下にある。2010年代に入り、ロシア連邦政府極東開発の一環として北方領土の産業振興の推進と、軍事施設の設置による防衛力強化などを推進している。日本側にはこれが実効支配の既成事実の強化、ロシア領への名実とともに完全編入に見える。日本のメディアはこれを「ロシア化」と呼んだ[1][2][3]

1952年にサンフランシスコ平和条約が発効されたことによって日本政府は南樺太と得撫島以北の北千島の主権を放棄したために問題視されることは少ないが、南樺太と北千島の日本領有化を目指す立場からは南樺太と北千島でのロシア化が問題視されている。

ウクライナ

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ロシアのピョートル1世とエカテリナ2世。この君主はウクライナの国民的詩人タラス・シェウチェンコの『夢』(1844年)で次のように評価されている。 「あの1世は 我らのウクライナを拷問し、 あの2世は 我らのやもめに止めを刺した」。 ...Це той первий, що розпинав Нашу Україну, А вторая доканала Вдову сиротину...[5] ロシアのピョートル1世とエカテリナ2世。この君主はウクライナの国民的詩人タラス・シェウチェンコの『夢』(1844年)で次のように評価されている。 「あの1世は 我らのウクライナを拷問し、 あの2世は 我らのやもめに止めを刺した」。 ...Це той первий, що розпинав Нашу Україну, А вторая доканала Вдову сиротину...[5]
ロシアのピョートル1世エカテリナ2世。この君主はウクライナの国民的詩人タラス・シェウチェンコの『夢』(1844年)で次のように評価されている。

「あの1世は
我らのウクライナを拷問し、
あの2世は
我らのやもめに止めを刺した」。

...Це той первий, що розпинав
Нашу Україну,
А вторая доканала
Вдову сиротину...[5]

ペトル・ワリョフ、ロシア内務大臣
  • 1863年7月18日:ロシア政府は、ヴァルーエフ指令を出す。文学作品を除き、ロシア帝国における全てのウクライナ語の出版物が禁止される[8][10]
  • 1869年1886年:ロシア政府は、ウクライナでロシア化に成績を収めたロシア人の国家公務員に対し特別手当制度を導入する[8]
  • 1876年5月18日:ロシア皇帝アレクサンドル2世は、エムス法ウクライナ語版を定める。ロシア帝国内でウクライナ語の出版物、殊に演劇の脚本・楽譜、学術書、文学書などが禁止される。ウクライナ語の出版物が輸入禁止となる[8][11]
  • 1881年:ロシアの内務省は、ロシア帝国内のすべての県の知事に対しエムス法を厳守するよう指令する。教会におけるウクライナ語の説教は禁止される[12]
  • 1883年:ロシア帝国のキエフ総督府は、ウクライナでウクライナ語の劇場を禁止する[12]
ウクライナの教会の一つ、修復前と修復後
  • 1888年:ロシア皇帝アレクサンドル3世は、帝国の官舎や役所などにおいてウクライナ語使用を禁止する命令を出す。さらに、ロシア政府とロシア正教は、ウクライナ人の子供にウクライナ語の洗礼名を与えることを禁止する。正式な書類ではウクライナ人の名前がロシア人の名前に書き換えられるようになる[12]
  • 1895年:ロシア政府は、ウクライナ語の児童文学を禁止する[12]
  • 1907年:ロシア政府は、ウクライナ語のマスコミに対し迫害を開始する[12]
  • 1908年:ロシアの元老院は、ウクライナ民族運動の啓蒙家の活動を禁止する[12]
  • 1910年:ロシア首相ストルイピンは、「目的を問わず、ウクライナ人・ユダヤ人・その他の異民族の団体」を禁止する指令を出す[12]
「他国のものは要らないが、自国のものは渡さぬ!」。ウクライナ人民共和国の反ロシア化のポスター。
「ウクライナ人の子供にウクライナ語の教育を!」。ソ連時代のデモ。
  • 1965年1969年:ソ連政府、ウクライナにおける共産党政権の批判者・人権擁護者に対し大規模の逮捕を行う[20]
  • 1970年ドニプロペトロウシクでロシア化に反対するウクライナのインテリに対する裁判[20]
  • 1970年1981年:ソ連政府、ウクライナにおける共産党政権の批判者・人権擁護者に対し大規模の逮捕を行う(チェルノヴィル、ジューバ、ストゥース、ロマニュークなど)[20]
  • 1978年:ウクライナの共産党は、ウクライナの教育省を通して「ウクライナ共和国の義務教育機関におけるロシア学習の改善について」の指令を出す。ウクライナ語の学校でウクライナ語は選択科目となる[21]
  • 1983年:ソ連政府とソ連共産党は、ソ連におけるロシア語教育の促進・ロシア語教師の手当制度導入について指令を出す(アンドロポフ指令[21]
  • 1983年:ウクライナの共産党は、ウクライナの教育省を通して「ウクライナ共和国の義務教育機関、就学前教育機関、およびその他の教育機関におけるロシア語学習の改善に関する追加手段について」の指令を出す。ウクライナにおけるウクライナ語の学校数が激減する[22]
  • 1989年:ソ連政府とソ連共産党は、ロシア語をソ連の公用語と定める[22]
  • 1991年ソ連崩壊以降、独立したウクライナとロシア連邦の関係は良好とはいえず、緊張状態が今日まで続いている。
  • 2014年:ウクライナ東部のロシア占領地域では、教育機関での授業はロシア語に翻訳されている。ロシア人は公然とウクライナの書籍を焼き払い、ウクライナの人物の記念碑を破壊した [23]
  • 2016年:クリミア占領下の2年間、ウクライナ語はたった1つの学校で教えられていた。公式にはウクライナ語の教育は許可されていたが、非公式にはそのような試みは地方当局によって積極的に妨害された [24]
  • 2019年:ウクライナ語を教えている最後の学校はクリミアで閉鎖された。両親によると、実際にはすべての科目はロシア語で教えられていたという [25]
  • 2022年:ロシア軍占領地域では、ウクライナ文学とウクライナ歴史教科書を没収・破壊し、学校での教育過程をロシア語だけで行うことを地元教師に強制した [26]。また、占領当局は、ウクライナ南東部の教師を「ロシアの教育基準」に移すことを目的として、いわゆる再訓練キャンプを創設した [27] [28] [29]
  • 2023年:ロシア軍占領地域では、ロシア人が一般図書館や学校図書館の蔵書からもウクライナの書籍を撤去し、ボイラー室で焼却している [30]

中央アジア

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バルト三国

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ベラルーシ

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  • 1764年:ウクライナ、スモレンスク (ベラルーシ人民の民族領土)、バルト三国およびフィンランドのロシア化に関する皇后エカチェリーナ2世の法令 (ロシア語: обрусение) [31]
州最古の都市ポロツク、1812年、1912年、2006年。建築記念碑の破壊の結果
  • 1772年ポーランドの最初の分割後、ベラルーシ民族の土地の一部はロシア帝国の一部となった。皇后エカチェリーナ2世は、併合された領土のすべての知事が文章、法令、命令をロシア語のみで書くことを義務付ける法令に署名した。地元住民の奴隷化も始まり、以前は自由だったベラルーシ人約50万人がロシア貴族の所有物(農奴)となった [32] [33]
  • 1773年:エカチェリーナ2世は「地方裁判所の設立に関する」別の命令に署名したが、これは再びロシア語のみの強制使用を規定した [34]
  • 1787年:エカチェリーナ2世は、ロシア帝国ではロシア正教会に従属する出版社のみで宗教書籍を印刷できると布告しました。その結果、ギリシャ系カトリック教徒の印刷業者の活動も禁止された [35]
  • 1794年コシチュシュコの蜂起 アレクサンドル・スヴォーロフの軍隊によって鎮圧され、そのために彼は25,000人のベラルーシ人農奴を受け取った [36]
  • 1795年:ロシアはベラルーシ国家とベラルーシ語の存在を公式に否定。ベラルーシの地元政治家の大量逮捕とロシア政治家による更迭が始まった [37]
ベラルーシの教会の一つ、修復前と修復後
  • 1831年:皇帝ニコライ1世が権力を握った後 1830年から1831年にかけての 11月蜂起 は抑制された。ロシア内務大臣ピョートル・ワリョフが「北西部領土のロシア化手段に関する特別エッセイ」(ロシア語. Очерк о средствах обрусения Северо-Западного края)を作成 [38]
  • 1832年:ベラルーシの言語と文化を支持していたギリシャ・カトリック学校とバシリウス学校の大量清算が行われた。ロシア正教会による教育への統制が強化された [39]
  • 1840年:皇帝ニコライ1世は、公式文書で「ベラルーシ」および「ベラルーシ人」という言葉を使用することを禁止する法令を発布した。この国は「北西部準州」(ロシア語でСеверо-Западный край)という名前が付けられた [40] [41]
  • 1852年:ギリシャカトリック教会の清算により、ベラルーシの宗教文献の大量破壊が始まった。ヨシプ・セマシュコ司教は、ベラルーシの教会で見つかった1,295冊の本が焼かれる現場を個人的に目撃した。彼は回想録の中で、その後3年間でベラルーシ語の本2,000冊が彼の命令によって焼かれた、と誇らしげに報告している [42] [41]
ミハイル・ムラヴィヨフ=ヴィレンスキー
  • 1864年:ベラルーシ国民に対する虐待で知られるミハイル・ムラヴィヨフ=ヴィレンスキー(1796-1866)が、「北西部準州」の総督に就任した [43]。彼は教育に特に注意を払い、「ロシアの銃剣がやり遂げられなかったことは、ロシアの学校と教会がやり遂げるだろう」(ロシア語で Что не доделал русский штык - доделает русская школа и церковь)という彼の言葉は有名になった [44] [45] [46]
  • 1900年:ロシア教育省は、すべての学校に次の課題を課した「異なる国籍の子供たちが純粋にロシア的な方向性を受け、ロシア国民との完全な融合に備えられるようにする」[47]
  • 1914年: ロシア当局、ベラルーシ語の存在を再び否定 。一般に、ベラルーシを支配していた間中、ロシア当局はベラルーシの学校を一つも開設することを許可しなかった [48]
  • 1929年:「ベラルーシ化」政策の終わり、大規模な政治的弾圧の始まり [49] [50]
  • 1930年:ソ連で、「宗教に対する闘争」を装って、ユニークな建築記念碑の大量破壊が始まる。ソ連当局の命令により、ヴィチェプスク、オルシャ、ポロツクの古代修道院は破壊された [51] [52] [53]
  • 1937年:ソ連当局の命令により、当時のベラルーシの知的エリート全員が射殺された。彼らの遺体はクラパティの森に埋葬された [54]
  • 1942年:ベラルーシ文学の古典、ヤンカ・クパラがモスクワ滞在中にソ連の工作員によって殺害された。
  • 1948年:ベラルーシの歴史的な紋章「パゴニャ」を展示した罪で、民族解放運動の活動家が懲役25年の判決を受けた [55]
ベラルーシのユニークな城の一つ、ソ連当局によって破壊された
  • 1960年:第二次世界大戦後、都市復興計画の名の下に建築記念碑は破壊され続けた。ベラルーシ人は 1960 年代と 1970 年代に建築遺産の点で最大の損失を被った [56]
  • 1995年アレクサンドル・ルカシェンコが政権を握った後、ベラルーシの国家シンボルである白赤白の国旗とパゴンの歴史的な紋章は、修正されたソ連のシンボルに置き換えられ、国歌も置き換えられた。さらに、ロシア語は第二の国家言語の地位を獲得した(ロシア語はすべての教育機関とマスメディアで使用されています)。ユネスコによれば、ベラルーシ語は消滅の危機に瀕しています [57]

ポーランド

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満洲

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日本

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脚注

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  1. ^ 島名のロシア化に反対 北方領土住民「クナシルで育った」
  2. ^ 時論公論  「ロシア化進む北方領土」
  3. ^ 北方領土のロシア化を止めよ
  4. ^ a b c d e Півторак 2001:134.
  5. ^ Сон [1]// Тарас Шевченко. Зібрання творів: У 6 т. — К., 2003. — Т. 1: Поезія 1837-1847.
  6. ^ a b c d e f g h i j Півторак 2001:135.
  7. ^ Сборник русского исторического общества. — 1871. — Выпуск 7. — С. 348.
  8. ^ a b c d e f g h Півторак 2001:136.
  9. ^ a b 中井 1998:234-236.
  10. ^ 中井 1998:239-240.
  11. ^ 中井 1998:240-242.
  12. ^ a b c d e f g h i Півторак 2001:137.
  13. ^ a b c d e Півторак 2001:140.
  14. ^ a b c d Півторак 2001:141.
  15. ^ a b c Півторак 2001:142.
  16. ^ a b Півторак 2001:143.
  17. ^ a b Півторак 2001:144.
  18. ^ a b Півторак 2001:145.
  19. ^ a b c d e f Півторак 2001:146.
  20. ^ a b c Півторак 2001:147.
  21. ^ a b Півторак 2001:148.
  22. ^ a b Півторак 2001:149.
  23. ^ Школы "ДНР": как изучают украинскую историю и язык?
  24. ^ Искоренить идентичность: как из крымских школ выдавливают украинский язык
  25. ^ В Крыму не осталось ни одной школы с обучением на украинском языке – правозащитники
  26. ^ Лінгвоцидна стратегія Кремля: у Росії хочуть «регулювати норми української мови» аж до злиття
  27. ^ Росіяни хочуть скасувати українську мову, літературу та історію у школах під окупацією
  28. ^ Змушують вчити російською». На півдні України військові РФ полюють на освітян
  29. ^ В Мелітополі окупанти нищать книги з історії України
  30. ^ Окупанти спалюють на ТОТ українські книги в котельнях
  31. ^ Собственноручное наставление Екатерины II князю Вяземскому при вступлении им в должность генерал-прокурора (1764 года)
  32. ^ Template:Літаратура/Краіна Беларусь. Вялікае Княства Літоўскае (2012) С. 330.
  33. ^ Template:Літаратура/Гістарычны шлях беларускай нацыі і дзяржавы С. 39.
  34. ^ Дакументы і матэрыялы па гісторыі Беларусі. Т. 2. — Менск, 1940.
  35. ^ Філатава А. Нацыянальнае пытанне і палітыка царскага ўраду ў Беларусі (канец XVIII — першая палова ХIХ ст.) // Беларускі Гістарычны Агляд. Т. 7, Сш. 1, 2000.
  36. ^ Швед В. Эвалюцыя расейскай урадавай палітыкі адносна земляў Беларусі (1772—1863 г.) // Гістарычны Альманах. Том 7, 2002.
  37. ^ Крыжаноўскі М. Жывая крыніца ты, родная мова // Народная Воля. № 65—66, 1 траўня 2008 г.
  38. ^ Миллер А. И. Планы властей по усилению русского ассимиляторского потенциала в Западном крае // «Украинский вопрос» в политике властей и русском общественном мнении (вторая половина XIХ века). — СПб: Алетейя, 2000.
  39. ^ Арлоў У. Як беларусы змагаліся супраць расейскага панавання? // Template:Літаратура/100 пытаньняў і адказаў з гісторыі Беларусі С. 51—52.
  40. ^ Арлоў У. Дзесяць вякоў беларускай гісторыі (862―1918): Падзеі. Даты. Ілюстрацыі. / У. Арлоў, Г. Сагановіч. ― Вільня: «Наша Будучыня», 1999.
  41. ^ a b Template:Літаратура/Гісторыя Беларусі (у кантэксьце сусьветных цывілізацыяў) С. 237.
  42. ^ Арлоў У. Дзесяць вякоў беларускай гісторыі (862―1918): Падзеі. Даты. Ілюстрацыі. / У. Арлоў, Г. Сагановіч. ― Вільня: «Наша Будучыня», 1999.
  43. ^ Template:Літаратура/Гісторыя Беларусі (у кантэксьце сусьветных цывілізацыяў) С. 257.
  44. ^ У менскім праваслаўным храме маліліся за Мураўёва-вешальніка — упершыню за сто гадоў, Радыё Свабода, 23 лістапада 2016 г.
  45. ^ Template:Літаратура/Гістарыяграфія гісторыі Беларусі С. 133.
  46. ^ Template:Літаратура/Гісторыя Беларусі (у кантэксьце сусьветных цывілізацыяў) С. 291.
  47. ^ Template:Літаратура/Краіна Беларусь. Вялікае Княства Літоўскае (2012) С. 327.
  48. ^ Template:Літаратура/Русіфікацыя: царская, савецкая, прэзыдэнцкая (2010) С. 19.
  49. ^ Катлярчук А. Прадмова да «літоўскага» нумару // Arche № 9, 2009.
  50. ^ Template:Літаратура/Даведнік Маракова
  51. ^ Пацюпа Ю. Занядбаная старонка правапісу: прапановы пісаньня прыназоўніка у/ў перад словамі, што пачынаюцца з галоснай // Arche. № 6 (29), 2003.
  52. ^ Бекус Н. Тэрапія альтэрнатывай, або Беларусь, уяўленая інакш // Arche. № 2 (31), 2004.
  53. ^ Клімчук Ф. Старадаўняя пісьменнасць і палескія гаворкі // Беларуская лінгвістыка. Вып. 50., 2001. С. 19—24.
  54. ^ Нельга забі(ы)ць
  55. ^ Памерла беларуская патрыётка Алеся Фурс. У маладосці яна атрымала 25 гадоў лагера за "Пагоню"281
  56. ^ Касперович Л. Местные бабушки плакали: "Оставьте нам церковь". Деревянные храмы Беларуси, которые нужно увидеть, TUT.BY, 12 сакавіка 2018 г.
  57. ^ Template:Літаратура/Дзевяноста пяты (2015) С. 10.

参考文献

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  • (日本語) 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
  • (日本語) 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
  • (ウクライナ語) Дзюба І. М. Інтернаціоналізм чи русифікація? — К., 1968.
  • (ウクライナ語) Півторак Г. Походження українців, росіян, білорусів та їхніх мов. Міфи і правда про трьох братів слов'янських зі «спільної колиски». ― Київ: НАНУ, Академія, 2001.

関連項目

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