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レビラト婚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レビレートから転送)

レビラト婚(レビラトこん)は、寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習。レビラトは、ラテン語で夫の兄弟を意味するレウィル(levir)に由来する。レビレート婚とも。

死亡した妻の代わりにその姉妹が夫と結婚する慣習のことはソロレート婚という。

概要

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レビラト婚には、最初の婚姻で結ばれた両親族集団の紐帯を維持する役割があった。

歴史的にはユダヤパンジャブモンゴル族匈奴チベット民族などで見られた。兄弟が寡婦の権利・義務を受け継ぐ場合も含めると、世界中に広く見られる。

古代のユダヤにはレビラト婚は禁止と義務の双方の定めがあった。律法の『レビ記18章16節20章21節では兄弟の妻と肉体関係を結ぶことをタブーとしている。例外的に、子供がいないまま夫が死亡した場合は、『申命記25章5節にあるように、逆に「夫の兄弟が未亡人と再婚する」ことが義務とされた [1]。この事情を考慮しないとと、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』2巻7章4節 [2]や『ユダヤ古代誌』17巻12章1・4節 [3]で、ヘロデ大王の息子アルケラオスが異母兄アレクサンドロスの未亡人[4]グラフュラを娶ったことが「我々(ユダヤ人)のしきたりに反する」と批難されるくだりは理解しがたい[5]

中国では同姓不婚儒教の観点からタブーとされ、周辺国のレビラト婚を蛮族の風習として非常に嫌った[6]。また実の兄弟の妻のみならず一門の女性を妻とするのも忌避された。例えば、劉備と同族の劉瑁の未亡人の結婚は否定的に見られた。

日本では逆縁もらい婚と言う。かつては武家の間でも見られたが、儒教の価値観が浸透した江戸時代中期以降は、武家社会の人々の間では嫌われるようになっていった。しかし、庶民の間では受け入れられていた慣習であった。武家社会への配慮から、逆縁婚は1875年(明治8年)12月8日の太政官指令で禁止されたが[7]、その後成立した民法に逆縁婚の禁止規定は盛り込まれなかった。近代日本でも、夫が出征して戦死して妻が戦争未亡人となった場合に夫の兄弟と再婚する事例も散見された。

歴史上の人物の例

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ヨーロッパ

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中東

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中国

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  • の太宗李世民は、玄武門の変で同母弟の斉王李元吉を殺害した後にその妃の楊氏(楊雄の従孫娘)と関係して、李明をもうけた(しかし正式な側室にはされていない)。
  • の太祖阿骨打の次男繩果の妃蒲察氏は、繩果の死後にその異母兄斡本と再婚した。斡本は繩果と蒲察氏の子である熙宗の養父となり、その即位に貢献した。
  • の世祖順治帝の生母孝荘文皇后は、太宗ホンタイジの側室の一人であったが、太宗の死後に世祖の摂政となった太宗の異母弟ドルゴンと再婚したという説がある。レビラト婚は満洲族女真)の古来の風習では普通に行われていたが(上述した金の皇族はその一例)、儒教では不義にあたるとされ、ホンタイジはこれを禁じており、実際にこの結婚が行われたか否かについては議論が分かれている。

日本

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関連作品

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出典

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  1. ^ (ヨセフス2002/2)p.274訳注
  2. ^ (ヨセフス2002/2)p.273
  3. ^ (ヨセフス2000/2)p.385・360-361
  4. ^ 厳密には彼女は一度別人と再婚しているが、そちらとも死別している
  5. ^ 本文中にもアレクサンドロスの亡霊の声という形で「お前(グラフュラ)は子供がいるのに私の兄弟(アルケラオス)と再婚した」とグラフュラを批難する記述がある。
  6. ^ 司馬遷著『史記』巻110匈奴列伝
  7. ^ 福島正夫「青年小野梓の家族制度論 ー『羅瑪律要』纂訳附註を通じてー」『早稲田法学』第49巻第1号、早稲田大学法学会、1973年11月、55-106頁、ISSN 03890546NAID 1200007889912021年10月1日閲覧 
  8. ^ 実父と同名だが、ヘロデ大王の息子である彼の母はサマリア出自で、カッパドキア王と特に血縁関係はない。
  9. ^ (ヨセフス2000/2)p.136・385

参考文献

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関連項目

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