ラリー・シャープ
ラリー・シャープ | |
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プロフィール | |
リングネーム |
"プリティ・ボーイ" ラリー・シャープ "ラシャス" ラリー・シャープ |
本名 | ローレンス・ウェイル |
ニックネーム | 金髪の吸血鬼 |
身長 | 185cm |
体重 | 120kg(全盛時) |
誕生日 | 1950年6月26日 |
死亡日 | 2017年4月10日(66歳没)[1] |
出身地 |
アメリカ合衆国 ニュージャージー州 グロスター郡ポールズボロ |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー | ゴリラ・モンスーン |
デビュー | 1974年 |
引退 | 1991年 |
ラリー・シャープ("Pretty Boy" Larry Sharpe、本名:Lawrence Weil、1950年6月26日 - 2017年4月10日[1])は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニュージャージー州ポールズボロ出身。
現役時代はヒールの中堅としてWWFなどで活動[2]、引退後はプロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー」の主宰者となって数々の選手を育成した[1]。
来歴
[編集]選手時代
[編集]学生時代にレスリングの選手として活動した後、ゴリラ・モンスーンのトレーニングを受け、1974年にWWWFエリアでデビュー[1]。以降、フロリダ、テキサス、ミッドアトランティックなどNWAの各テリトリーを転戦。1976年4月には全日本プロレスの第4回チャンピオン・カーニバルに初来日、総当たりリーグ戦ではジャイアント馬場やジャンボ鶴田、アブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦したが、キャリア不足もあって全敗の最下位に終わった[3]。
その後、カナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングにてリッパー・コリンズのパートナーとなり、金髪の悪役タッグチーム、ボディシャス・ブロンズ(The Bodacious Blondes)を結成。1976年9月24日、エディ&ジェリー・モローの兄弟チームから同地区認定のインターナショナル・タッグ王座を奪取している[4]。翌1977年1月にはコリンズと共に国際プロレスに来日したが、外国人サイドのエース格としてリップ・タイラーとエディ・サリバンのコンビが同時来日していたため、当時グレート草津とマイティ井上が保持していたIWA世界タッグ王座への挑戦は見送られた[5]。
1977年下期よりジャック・エバンス(AAAなどでの活動で知られる同名選手とは別人)を新パートナーにWWFに登場。9月26日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、WWFヘビー級王座獲得前のボブ・バックランドとシングルマッチを行っている[6]。同年12月、エバンスと共にハリウッド・ブロンズ(The Hollywood Blondes)のチーム名でプエルトリコに遠征し、カルロス・コロン&ビクター・ジョビカを破りWWC北米タッグ王座を獲得[7]。1978年末にエバンスとのコンビを解消してシングルプレイヤーとなり、同年11月にハワイでドン・ムラコからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取[8]。1979年8月には全日本プロレスに再来日、ミル・マスカラスともシングルマッチで対戦している[9]。
以降もWWFを主戦場に、1980年8月9日にニューヨークのシェイ・スタジアムで行われたビッグイベント "Showdown at Shea" において、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦(試合はWWFマーシャルアーツ・ヘビー級王座戦として行われた)[10][11]。直後に新日本プロレスに初参戦し、外国人サイドの2番手となってスタン・ハンセンのパートナーを務め、9月22日の米子大会では坂口征二の北米ヘビー級王座に挑戦した[12]。WWFには1982年まで中堅ヒールとして出場を続け[13][14]、1981年10月4日には地元のニュージャージーにてブルドッグ・ブラワーと組み、リック・マーテル&トニー・ガレアのWWFタッグ王座に挑戦している[15]。
モンスター・ファクトリー
[編集]シャープは選手としてリングに上がる一方、ケビン・フォン・エリック、トニー・アトラス、キングコング・バンディらのトレーナーも務めていた。その実績を背景に、同郷のバディ・ロジャースの協力のもと、1983年に地元ニュージャージーにてプロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー(Monster Factory)」を開設[1]。ユニークな人材を次々と発掘・育成してプロレス界に送り込むことになる。その第1号となったクラッシャー・ユーコフことバンバン・ビガロの出現は、モンスター・ファクトリーの名を世界中に知らしめた[1]。シャープはビガロのマネージャーも担当し、1987年にはビガロに同行して新日本プロレスへ久々に来日。ディック・マードックとの対立アングルも組まれ、ビガロと組んでタッグマッチにも出場した[16]。
その後もパートタイムで東部地区のインディー団体に出場していたが、1991年に現役を引退してスクール運営に専念。以来、晩年まで数多くのスターを輩出した[1]。プロレスラーとしてのキャリアはB級のポジションで終わったものの、長期間に渡ってWWFで中堅を務めた試合運びの巧さやマイクパフォーマンスのスキルを有する名伯楽として、ビンス・マクマホンやブレット・ハートからも信頼を寄せられていた[17]。
育成選手
[編集]- バンバン・ビガロ
- クリス・キャンディード
- バージル
- レイヴェン
- ジョニー・ホットボディ
- ボールズ・マホーニー
- ザ・ピットブルズ
- ザ・ゴッドファーザー
- タタンカ
- ドゥエイン・ギル
- ディーロ・ブラウン
- ビッグ・ショー
- ザ・ヘッドバンガーズ(モッシュ、スラッシャー)
- パブロ・マルケス
- ジョン・ザンディグ
- ダイス・ドミノ
- サンジェイ・ダット
- シェイマス
- スティーブ・カトラー
得意技
[編集]獲得タイトル
[編集]- インターナショナル・タッグ王座:1回(w / "ラヴィシング" リッパー・コリンズ)[4]
- WWC北米タッグ王座:2回(w / "ダイナマイト" ジャック・エバンス)[7]
- NWAハワイ・ヘビー級王座:1回[8]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h “Larry Sharpe passes away at 66 years old”. Wrestling Observer (April 10, 2017). 2017年4月11日閲覧。
- ^ “Larry Sharpe: Places”. Wrestlingdata.com. 2020年7月5日閲覧。
- ^ “AJPW 1976 The 4th Champion Carnival”. Puroresu.com. 2015年9月8日閲覧。
- ^ a b “Stampede International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月20日閲覧。
- ^ “IWE 1977 New Year Pioneer Series”. Puroresu.com. 2015年9月8日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1977”. The History of WWE. 2009年5月27日閲覧。
- ^ a b “WWC North American Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月20日閲覧。
- ^ a b “NWA Hawaii Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月20日閲覧。
- ^ “The AJPW matches fought by Larry Sharpe in 1979”. Wrestlingdata.com. 2015年1月19日閲覧。
- ^ “Showdown at Shea 1980”. Pro-Wrestling History.com. 2010年4月20日閲覧。
- ^ “WWF Showdown At Shea”. Cagematch.net. 2015年1月19日閲覧。
- ^ “NJPW Bloody Fight Series 1980 - Tag 26”. Cagematch.net. 2015年1月19日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1980”. The History of WWE. 2010年5月19日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1981”. The History of WWE. 2010年5月19日閲覧。
- ^ “Events Database: WWF”. Cagematch.net. 2015年9月8日閲覧。
- ^ “NJPW Blazing Cherry Blossome 1987 - Tag 15”. Cagematch.net. 2015年1月19日閲覧。
- ^ “Why Choose the Monster Factory?”. The Official Site of Larry Sharpe's MONSTER FACTORY. 2009年5月27日閲覧。