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ラリー・シャープ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラリー・シャープ
プロフィール
リングネーム "プリティ・ボーイ" ラリー・シャープ
"ラシャス" ラリー・シャープ
本名 ローレンス・ウェイル
ニックネーム 金髪の吸血鬼
身長 185cm
体重 120kg(全盛時)
誕生日 (1950-06-26) 1950年6月26日
死亡日 (2017-04-10) 2017年4月10日(66歳没)[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニュージャージー州の旗 ニュージャージー州
グロスター郡ポールズボロ
スポーツ歴 レスリング
トレーナー ゴリラ・モンスーン
デビュー 1974年
引退 1991年
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ラリー・シャープ"Pretty Boy" Larry Sharpe、本名:Lawrence Weil1950年6月26日 - 2017年4月10日[1])は、アメリカ合衆国プロレスラーニュージャージー州ポールズボロ出身。

現役時代はヒールの中堅としてWWFなどで活動[2]、引退後はプロレスラー養成所モンスター・ファクトリー」の主宰者となって数々の選手を育成した[1]

来歴

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選手時代

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学生時代にレスリングの選手として活動した後、ゴリラ・モンスーンのトレーニングを受け、1974年WWWFエリアでデビュー[1]。以降、フロリダテキサスミッドアトランティックなどNWAの各テリトリーを転戦。1976年4月には全日本プロレス第4回チャンピオン・カーニバルに初来日、総当たりリーグ戦ではジャイアント馬場ジャンボ鶴田アブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦したが、キャリア不足もあって全敗の最下位に終わった[3]

その後、カナダカルガリースタンピード・レスリングにてリッパー・コリンズのパートナーとなり、金髪悪役タッグチームボディシャス・ブロンズThe Bodacious Blondes)を結成。1976年9月24日、エディ&ジェリー・モローの兄弟チームから同地区認定のインターナショナル・タッグ王座を奪取している[4]。翌1977年1月にはコリンズと共に国際プロレスに来日したが、外国人サイドのエース格としてリップ・タイラーエディ・サリバンのコンビが同時来日していたため、当時グレート草津マイティ井上が保持していたIWA世界タッグ王座への挑戦は見送られた[5]

1977年下期よりジャック・エバンス(AAAなどでの活動で知られる同名選手とは別人)を新パートナーにWWFに登場。9月26日にはニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにて、WWFヘビー級王座獲得前のボブ・バックランドとシングルマッチを行っている[6]。同年12月、エバンスと共にハリウッド・ブロンズThe Hollywood Blondes)のチーム名でプエルトリコに遠征し、カルロス・コロン&ビクター・ジョビカを破りWWC北米タッグ王座を獲得[7]1978年末にエバンスとのコンビを解消してシングルプレイヤーとなり、同年11月にハワイドン・ムラコからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取[8]1979年8月には全日本プロレスに再来日、ミル・マスカラスともシングルマッチで対戦している[9]

以降もWWFを主戦場に、1980年8月9日にニューヨークシェイ・スタジアムで行われたビッグイベント "Showdown at Shea" において、アントニオ猪木NWFヘビー級王座に挑戦(試合はWWFマーシャルアーツ・ヘビー級王座戦として行われた)[10][11]。直後に新日本プロレスに初参戦し、外国人サイドの2番手となってスタン・ハンセンのパートナーを務め、9月22日の米子大会では坂口征二の北米ヘビー級王座に挑戦した[12]。WWFには1982年まで中堅ヒールとして出場を続け[13][14]1981年10月4日には地元のニュージャージーにてブルドッグ・ブラワーと組み、リック・マーテル&トニー・ガレアWWFタッグ王座に挑戦している[15]

モンスター・ファクトリー

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シャープは選手としてリングに上がる一方、ケビン・フォン・エリックトニー・アトラスキングコング・バンディらのトレーナーも務めていた。その実績を背景に、同郷のバディ・ロジャースの協力のもと、1983年に地元ニュージャージーにてプロレスラー養成所モンスター・ファクトリーMonster Factory)」を開設[1]。ユニークな人材を次々と発掘・育成してプロレス界に送り込むことになる。その第1号となったクラッシャー・ユーコフことバンバン・ビガロの出現は、モンスター・ファクトリーの名を世界中に知らしめた[1]。シャープはビガロのマネージャーも担当し、1987年にはビガロに同行して新日本プロレスへ久々に来日。ディック・マードックとの対立アングルも組まれ、ビガロと組んでタッグマッチにも出場した[16]

その後もパートタイムで東部地区のインディー団体に出場していたが、1991年に現役を引退してスクール運営に専念。以来、晩年まで数多くのスターを輩出した[1]。プロレスラーとしてのキャリアはB級のポジションで終わったものの、長期間に渡ってWWFで中堅を務めた試合運びの巧さやマイクパフォーマンスのスキルを有する名伯楽として、ビンス・マクマホンブレット・ハートからも信頼を寄せられていた[17]

2017年4月10日肝臓癌のため66歳で死去[1]

育成選手

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得意技

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獲得タイトル

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スタンピード・レスリング
ワールド・レスリング・カウンシル
  • WWC北米タッグ王座:2回(w / "ダイナマイト" ジャック・エバンス)[7]
NWAミッドパシフィック・プロモーションズ
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回[8]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h Larry Sharpe passes away at 66 years old”. Wrestling Observer (April 10, 2017). 2017年4月11日閲覧。
  2. ^ Larry Sharpe: Places”. Wrestlingdata.com. 2020年7月5日閲覧。
  3. ^ AJPW 1976 The 4th Champion Carnival”. Puroresu.com. 2015年9月8日閲覧。
  4. ^ a b Stampede International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月20日閲覧。
  5. ^ IWE 1977 New Year Pioneer Series”. Puroresu.com. 2015年9月8日閲覧。
  6. ^ WWE Yearly Results 1977”. The History of WWE. 2009年5月27日閲覧。
  7. ^ a b WWC North American Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月20日閲覧。
  8. ^ a b NWA Hawaii Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月20日閲覧。
  9. ^ The AJPW matches fought by Larry Sharpe in 1979”. Wrestlingdata.com. 2015年1月19日閲覧。
  10. ^ Showdown at Shea 1980”. Pro-Wrestling History.com. 2010年4月20日閲覧。
  11. ^ WWF Showdown At Shea”. Cagematch.net. 2015年1月19日閲覧。
  12. ^ NJPW Bloody Fight Series 1980 - Tag 26”. Cagematch.net. 2015年1月19日閲覧。
  13. ^ WWE Yearly Results 1980”. The History of WWE. 2010年5月19日閲覧。
  14. ^ WWE Yearly Results 1981”. The History of WWE. 2010年5月19日閲覧。
  15. ^ Events Database: WWF”. Cagematch.net. 2015年9月8日閲覧。
  16. ^ NJPW Blazing Cherry Blossome 1987 - Tag 15”. Cagematch.net. 2015年1月19日閲覧。
  17. ^ Why Choose the Monster Factory?”. The Official Site of Larry Sharpe's MONSTER FACTORY. 2009年5月27日閲覧。

外部リンク

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