ラウル2世・ド・ブリエンヌ
表示
ラウル2世・ド・ブリエンヌ Raoul II de Brienne | |
---|---|
ウー伯 ギーヌ伯 | |
在位 | 1344年 - 1350年 |
出生 |
1315年 |
死去 |
1350年11月19日 |
配偶者 | カテリーナ・ディ・サヴォイア=ヴォー |
家名 | ブリエンヌ家 |
父親 | ウー伯・ギーヌ伯ラウル1世・ド・ブリエンヌ |
母親 | ジャンヌ・ド・メロ |
ラウル2世・ド・ブリエンヌ(Raoul II de Brienne, 1315年 - 1350年11月19日)は、ウー伯・ギーヌ伯ラウル1世・ド・ブリエンヌとジャンヌ・ド・メロの息子[1]。1344年に父よりウー伯位、ギーヌ伯位およびフランス軍総司令官(Connétable de France)の地位を継承した[2]。
生涯
[編集]1340年にヴォー領主ルイージ2世・ディ・サヴォイアの娘カテリーナ(1388年没)と結婚したが、夫妻の間に子供は生まれなかった。ジャン・デュ・ボワという庶子が1人おり、1395年にラウルの子として認められたが、実際の親子関係は不明である[注釈 1]。ラウル2世はアンゲラン7世・ド・クシーのはとこにあたる[4]。
1346年、彼は戦闘中に初代ケント伯トマス・ホランドにカーンで捕らえられ、捕虜となった[注釈 2][5][6]。1350年、身代金を集めるためにフランスへの帰国が許可された。しかし、ラウルはフランスに到着すると、フランス王ジャン2世の命により適正な手続きを経ずに捕らえられ、首を切り落とされて即刻処刑された[7]。その理由は不明であるが、ラウル2世が自らの釈放と引き換えにトマスに自分の城とギーヌ伯領を与えることを約束したという噂があった[4]。
注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ Perry 2018, p. xxiii.
- ^ Sumption 1999, p. 666.
- ^ Perry 2018, p. 177.
- ^ a b c Tuchman 1978, p. 127.
- ^ St.John 2010, p. 89.
- ^ Sumption 1999, pp. 510–511.
- ^ Jones 2000, p. 391.
参考文献
[編集]- Jones, Michael (2000). “The last Capetians and early Valois Kings, 1314-1364”. In Jones, Michael. The New Cambridge Medieval History:c.1300-c.1415. 6. Cambridge University Press
- Perry, Guy (2018). The Briennes: The Rise and Fall of a Champenois Dynasty in the Age of the Crusades, c. 950-1356. Cambridge University Press
- St.John, Graham E. (2010). “War, the church and English Men-at-Arms”. In Given-Wilson, Chris. Fourteenth Century England VI. Boydell Press
- Sumption, Jonathan (1999). The Hundred Years War: Trial by Fire. University of Pennsylvania Press
- Tuchman, Barbara Wertheim (1978) (英語). A Distant Mirror : The Calamitous 14th Century. Knopf. ISBN 978-0-394-40026-6
|
|
|