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アンゲラン7世・ド・クシー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンゲラン7世・ド・クシー
Enguerrand VII de Coucy
ソワソン伯
アンゲラン7世の紋章
在位 1367年 - 1397年

出生 1340年
フランス王国ピカルディ、クシー城
死去 1397年2月18日
オスマン帝国アナトリアブルサ
配偶者 イザベラ・プランタジネット
  イザベル・ド・ロレーヌ
子女 マリー
フィリッパ
イザベル
家名 クシー家
父親 クシー領主アンゲラン6世
母親 カタリーナ・フォン・エスターライヒ
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アンゲラン7世・ド・クシー(Enguerrand VII de Coucy, 1340年 - 1397年2月18日)またはアンガラン7世は、クシー、マルル、ラ・フェール、クレシー=シュル=セールおよびオワジー領主、ソワソン伯、アルベマール伯およびベッドフォード伯であったフランスの貴族。

生涯

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クシー領主アンゲラン6世とオーストリア公レオポルト1世の娘カタリーナ[1]の間に生まれた。1346年、アンゲラン7世が7歳の時に、父アンゲラン6世はクレシーの戦いで戦死した[1]

10年後の1356年、アンゲラン7世はポワティエの戦いに参加したが、フランス王ジャン2世イングランドに敗北を喫した。アンゲランはエドワード黒太子によって捕らえられたジャン2世の解放に対する担保としてイングランドに送られた。ロンドンにおいて、アンゲランはイングランド王エドワード3世と会った。エドワード3世はアンゲランを気に入り、自身の娘イザベラと結婚させるとともにソワソン伯[2]、アルベマール伯およびベッドフォード伯の位をアンゲランに与え、解放した。アンゲランは1367年に帰国し、精力的に活動した。

1358年のジャックリーの乱の後、アンゲランは母カタリーナの遺産を手に入れるため、軍を率いてスイス、イタリアおよびドイツに向かった。この遠征はスイスで激しい抵抗に遭うなどして失敗に終わり、アンゲランのこの時の記憶が1390年に逆さの冠で象徴される「王冠騎士団」の創設につながった。1377年、義父エドワード3世の死を機に、イングランドとの戦いを再開し、3年後にはベルトラン・デュ・ゲクランの後を受けてフランス軍総司令官の座につくことを求められたが、アンゲランは断り、オリヴィエ・ド・クリッソンがその地位についた[3]

1380年、アンゲランはフランス王シャルル6世の戴冠式に出席し、その後スコットランドに向かったが上陸できずに終わった。1382年、マイヨタンの反乱の鎮圧のためパリに入った。フランス王の特使として、アンゲランはブルターニュ公ジャン4世、スペイン王、サヴォワおよびジェノヴァと折衝を行った。クシーには遠征の終わるごとに戻り、アンゲラン3世の城を改修し、ゴシック様式の城を補強した。1367年にアンゲランは義父エドワード3世によりソワソン伯領を与えられていたが、1391年にルイ・ドルレアンに与えられた。また、アンゲランはアムの町をマリー・ド・アムから買い取った。

十字軍騎士の子孫として、アンゲランはブルゴーニュ公ジャンおよび後に神聖ローマ皇帝となるハンガリー王ジギスムントが率いるニコポリス十字軍に参加した。1396年9月25日、十字軍はニコポリスの戦いバヤズィト1世に敗北し、アンゲランはビテュニアで捕虜となり、翌年に傷がもとでブルサで死去した[4]。遺体はノジャンに、心臓はソワソンの聖トリニティ修道院に埋葬された[5]

アンゲランには男子がなく、長女マリーが継承した。マリーは夫アンリ・ド・マルルの死後、1400年にクシー領およびそれに付随するフォランブレ、サン=トーバン、ラ・フェール、サン=ゴバン、ピノン、ル・シャテリエ、サン・ランベール、アシー、セルニーなどをルイ・ドルレアンに400,000ポンドで売却した[6]

クシー家本家は断絶したものの、マルル、ラ・フェール、サン=ゴバン、アムおよびソワソンの一部などの主な領地はマリーの子孫であるスカルポン家ルクセンブルク=リニー家、さらにブルボン=ヴァンドーム家に継承され、ヴェルヴァンは分家のクシー=ヴェルヴァン家に継承された。

子女

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1365年7月27日、ウィンザー城でイングランド王エドワード3世の娘イザベラと結婚し[7]、以下の娘をもうけた[8]

イザベラの死後、1386年にロレーヌ公ジャン1世の娘イザベル(1410年没)と結婚し、1女をもうけた[8][10]

庶子が1人いる。

  • パースヴァル(1386年頃 - 1437年頃) - ギネ領主、オーベルモン領主[11]

脚注

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  1. ^ a b タックマン、p. 87
  2. ^ エドワード3世は人質であったブロワ伯ギー2世からソワソン伯領を手に入れた(タックマン、p. 377-378)。
  3. ^ タックマン、p. 604
  4. ^ タックマン、p. 956
  5. ^ タックマン、p. 958
  6. ^ タックマン、p. 965
  7. ^ タックマン、p. 375
  8. ^ a b c d Monique Ornato, Répertoire prosopographique de personnages apparentés à la couronne de France aux XIV et XV siècles, Publications de la Sorbonne, 2001
  9. ^ タックマン、p. 488
  10. ^ タックマン、p. 706, 708
  11. ^ タックマン、p. 732、注47

参考文献

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  • バーバラ・W・タックマン、徳永守儀 訳 『遠い鏡』 朝日出版社、2013年
先代
ギー2世
ソワソン伯
1367年 - 1397年
次代
マリー