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ケント伯爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケント伯から転送)
エディンバラ公爵・ケント伯爵アルフレッド・アーネスト・アルバート、1881年撮影。

ケント伯爵(ケントはくしゃく、英語: Earl of Kent)は、イギリス伯爵位。ウェセックス朝の貴族として1度、イングランド貴族として6度、連合王国貴族として1度創設された。ウィレム・ファン・イーペル英語版もイングランド王スティーブンよりケント州を与えられたが、爵位は与えられなかったとするのが主流であり[1]、本項では記載しつつ期数には数えないとしている。

歴史

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初代ケント伯爵ヒューバート・ド・バラ

ゴドウィンはケント伯爵の称号を所有したとされる[2]。その息子レオフウィン・ゴドウィンソン英語版は1049年頃よりケント州を統治したが、若年だったためケント伯爵にはなっておらず、父の指示に基づき統治したとされ、1057年になってようやくケント伯爵の称号を手に入れた[3]。レオフウィンは1066年のヘイスティングズの戦いで戦死した[3]

ウィリアム1世の異父弟でバイユー司教英語版オド英語版は、1067年にケント伯爵に叙された[4]。ウィリアム1世の不在中に副王を務めたり、国王軍を率いて反乱を鎮圧したりしたが、1083年に失脚、投獄された[4]。1087年に釈放されるものの、すぐに反乱を起こして翌1088年に海外追放され[4]、爵位も剥奪された。以降オドは大陸ヨーロッパで活躍し、爵位を取り戻すことは二度となかった[4]

フランドル伯ロベール1世の孫ウィレム・ファン・イーペル英語版はフランドル伯領の継承をめぐってギヨーム・クリトン と争い、同じくクリトンによる継承を喜ばなかったイングランド王ヘンリー1世は甥スティーブンをフランドルに派遣した[1]。これがきっかけとなってウィレムとスティーブンは知り合いになり、ウィレムは1133年にフランドル地方から追い出されるとスティーブンを頼ってイングランドに逃亡した[1]。1135年12月にスティーブンがイングランド王位を継承するとウィレムは重用され、1141年にはケント州を与えられた[1]。『英国人名事典』はこのとき正式な「ケント伯爵」の爵位が与えられなかったとしている[1]。いずれにしても、1154年にスティーブンが失脚してヘンリー2世 (1133-1189) が即位すると、ウィレムも失脚し、1157年にイングランドを出てフランドルに戻った[1]

イングランド王ジョンの晩年とヘンリー3世の若年期に最高法官英語版を務めたヒューバート・ド・バラ英語版は1227年にケント伯爵に叙されたが、1232年に突如失脚して投獄され、1233年に第3代ペンブルック伯リチャード・マーシャル英語版の反乱に加担したが、翌年に恩赦され爵位を取り戻した[5]。1239年には再び反逆罪で訴えられる危機が生じたが、最終的には1243年に死去するまで爵位を保持した[5]。息子を2人もうけたものの、2人とも爵位を継承できなかったという[5]

イングランド王エドワード1世の末男エドマンド・オブ・ウッドストック英語版は異母兄エドワード2世に重用され、1321年6月に五港長官英語版に任命され、同年にはケント伯爵にも叙された[6]。エドワード2世は人気を失い、ウッドストックは1326年にエドワード2世を廃位させた反乱英語版に加担して新政権に取り入ったが、エドワード2世が死去しておらず投獄されているという誤情報をつかまされて反乱を起こし、1330年に斬首刑に処された[6]。死後、長男エドマンド英語版は母による請願もあり爵位を回復し、弟にあたる3代伯爵ジョン英語版の死後は2人の姉妹にあたるジョーンが爵位を継承した[6]。ジョーンの夫トマス・ホランド妻の権利により英語版ケント伯爵の爵位を得たともされるが[7]、いずれにしても彼はケント伯爵として議会に召集された[8]。 2人の息子にあたる2代伯爵トマスと孫にあたる3代伯爵トマスはイングランド王リチャード2世に重用され、3代伯爵は1397年9月にサリー公爵に叙されたが、リチャード2世の廃位とともにサリー公爵位の放棄を余儀なくされ、1400年にはヘンリー4世への陰謀に加担したとして処刑された[8]。3代伯爵の弟エドマンド英語版は爵位継承を許可されたが、1408年9月に死去すると爵位は廃絶した[8]

初代ウェストモーランド伯爵ラルフ・ネヴィル の息子で百年戦争薔薇戦争に参戦したファウコンバーグ男爵ウィリアム・ネヴィルは1461年のタウトンの戦いに勝利した功績でケント伯爵に叙され、海軍卿英語版にも任命されたが、娘しかもうけなかったため1463年に死去すると爵位は廃絶した[8]

初代ケント公爵・第12代ケント伯爵ヘンリー・グレイの肖像画、チャールズ・ジャーヴァス作、1710年代。

薔薇戦争におけるノーサンプトンの戦いランカスター派からヨーク派に鞍替えした第4代ルシンのグレイ男爵エドマンド・グレイ英語版は1463年6月にイングランド大蔵卿英語版枢密顧問官に任命され、1465年5月30日にケント伯爵に叙された[9]。薔薇戦争の戦乱においても1484年にリチャード3世から、1487年にヘンリー7世から爵位を再確認され、息子ジョージ英語版は爵位を継承することができた[9]。 ジョージは1483年にバス勲章を授与され、ランバート・シムネルの反乱(1487年)で国王軍の指揮官の1人を務め、1497年コーンウォール反乱英語版でも反乱軍を撃破した[9]。 ジョージの長男にあたる3代伯爵リチャード英語版ガーター勲章を授与されたが、その異母弟にあたる4代伯爵ヘンリー英語版は「地所が貧弱」を理由としてケント伯爵の称号を使用せず、孫レジナルド英語版は1571年に請願を出してケント伯爵として承認を求めて成功した[10]。 また、ヘンリーがケント伯爵号を全く使用しなかったため、レジナルドは請願を出す前には庶民として扱われ、1563年にウェイマス選挙区英語版庶民院議員に当選した[11]。 6代伯爵ヘンリー英語版から8代伯爵ヘンリー英語版までの3代にわたってベッドフォードシャー統監英語版を務めたが、1639年に8代伯爵が死去するとケント伯爵と従属爵位のルシンのグレイ男爵は分離し、ケント伯爵は4代伯爵の弟アンソニーの孫アンソニー英語版が、ルシンのグレイ男爵は遠戚チャールズ・ロングヴィルが継承した[10]。 9代伯爵の息子にあたる10代伯爵ヘンリー英語版短期議会レスター選挙区英語版選出の庶民院議員を務め、以降ラトランド統監英語版とベッドフォードシャー統監を歴任した[10]。 10代伯爵の孫にあたる12代伯爵ヘンリーは母からルーカス男爵を継承し、宮内長官英語版王室家政長官英語版王璽尚書など多くの役職を歴任し、1706年にケント侯爵に、1710年にケント公爵に、1740年にグレイ侯爵に叙されたが、息子に先立たれたため、その死に伴い孫娘ジェマイマがグレイ侯爵とルーカス男爵は継承したが、ケント伯爵を含む大半の爵位が廃絶した[12]

1866年女王誕生記念叙勲英語版において、ヴィクトリア女王の次男アルフレッド・アーネスト・アルバート (1844-1900)連合王国貴族であるアルスター伯爵ケント伯爵エディンバラ公爵に叙された[13]。しかし、2人の息子に先立たれたため、1900年にアルフレッドが死去するとこれらの爵位は廃絶、ザクセン=コーブルク=ゴータ公は第2代オールバニ公爵チャールズ・エドワードが継承した[14]

ケント伯爵(第1期、1020年)

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ケント伯爵(第2期、1067年)

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ケント伯爵(1141年)

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ケント伯爵(第3期、1227年)

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ケント伯爵(第4期、1321年)

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ケント伯爵(第5期、1360年)

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ケント伯爵(第6期、1461年)

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ケント伯爵(第7期、1465年)

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ケント伯爵(第8期、1866年)

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出典

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  1. ^ a b c d e f Norgate, Kate (1900). "William of Ypres" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 61. London: Smith, Elder & Co. pp. 356–358.
  2. ^ Hunt, William (1890). "Godwin (d.1053)" . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 22. London: Smith, Elder & Co. pp. 50–55.
  3. ^ a b Hunt, William (1893). "Leofwine" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co. p. 64.
  4. ^ a b c d Davis, Henry William Carless (1911). "Odo of Bayeux" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 5.
  5. ^ a b c Davis, Henry William Carless (1911). "Burgh, Hubert de" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 815.
  6. ^ a b c Tout, Thomas Frederick (1888). "Edmund of Woodstock" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 16. London: Smith, Elder & Co. pp. 410–412.
  7. ^ "Kent, Earl of (E, 1360 - 1408)". Cracroft's Peerage (英語). 18 January 2004. 2019年12月23日閲覧
  8. ^ a b c d Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Kent, Earls and Dukes of" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 15 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 734–735.
  9. ^ a b c Kingsford, Charles Lethbridge (1890). "Grey, Edmund" . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 23. London: Smith, Elder & Co. pp. 180–181.
  10. ^ a b c "Kent, Earl of (E, 1465 - 1740)". Cracroft's Peerage (英語). 26 March 2011. 2019年12月23日閲覧
  11. ^ J., W.J. (1981). "GREY, Reginald or Reynold (d.1573), of Wrest, Beds.". In Hasler, P. W. (ed.). The House of Commons 1558-1603 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年12月23日閲覧
  12. ^ "Kent, Duke of (GB, 1710 - 1740)". Cracroft's Peerage (英語). 2019年12月23日閲覧
  13. ^ "No. 23119". The London Gazette (英語). 25 May 1866. p. 3127.
  14. ^ "Edinburgh, Duke of (UK, 1866 - 1900)". Cracroft's Peerage (英語). 2019年12月23日閲覧