ユーリー・ウラジミロヴィチ (ムーロム公)
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ユーリー・ウラジミロヴィチ(ロシア語: Юрий Владимирович ? - 1176年1月19日)は歴代ムーロム公のうちの一人である(在位:1162年 - 1176年)。リャザン大公ウラジーミルの子。
1162年[1](1161年という記録もある[2])に父のウラジーミルが死去した後、上位の公位であるリャザン公には従叔父のグレプが就き、その子孫が継いだ。一方、ユーリーらウラジーミルの子孫の統治のもとで、ムーロム公国はリャザン公国から分離した。ムーロムは、ウラジーミル・スズダリ公国の首都ウラジーミルに近接しており、ムーロム公もまた、ウラジーミル・スズダリ公と同盟して行動した。
1164年、ユーリーはブルガル族に対する、ウラジーミル・スズダリ公国のアンドレイ・ボゴリュブスキーの遠征軍に援軍を送った。また、1169年末にはノヴゴロド公ロマンに、1172年冬には再びブルガル族に、1173年にはキエフ公国のロスチスラフの子に対して軍勢を差し向けた。
1174年にアンドレイが死ぬと、ウラジーミル大公国(アンドレイ以降、ウラジーミル・スズダリ公国の統治者は大公を称した)では権力闘争が勃発したが、この時はヤロポルク(アンドレイの甥)を支援し、ミハイル(アンドレイの弟)に対する遠征に参加した。ユーリーはその2年後の1176年に死去した。
子
[編集]出典
[編集]- ^ Ипатьевская летопись // ПСРЛ, т. II. М., 1962, стб. 519.
- ^ В Воскресенской летописи (ПСРЛ, т. VII; стр. 75)
外部リンク
[編集]- Войтович Л.КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ
- Соловьёв С. М.История России с древнейших времён